今週のみことば
12月7日
「その後イエスは11弟子が食卓についているところに現れ
彼らの不信仰と、心のかたくななことをお責めになった
彼らは、よみがえられたイエスを見た人々の言うことを
信じなかったからである
『全世界に出て行って
すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ
信じてバプテスマを受ける者は救われる
しかし、不信仰の者は罪に定められる
信じる者にはこのようなしるしが伴う
すなわち、彼らはわたしの名で悪霊を追い出し
新しい言葉を語り、へびをつかむであろう
また、毒を飲んでも決して害を受けない
病人に手をおけば癒される』」
(マルコによる福音書16章14-18節)
十字架にかかり葬られたはずのイエスがよみがえった
それはイエスご自身によって語られた約束であったにもかかわらず
弟子達は誰もこの事実を信じようとしませんでした
そして、ついにイエスは弟子達のところへ現れ
彼らの不信仰を嘆くと共に
これから彼らがなすべきことを命じたのでした
みことばには、「信じる」という言葉が繰り返し記されています
では、「信じる」とはどういうことで、「信じる」ことによって
わたしたちはどうなっていくのでしょうか
「あなたがたは、イエス・キリストを見たことはないが
彼を愛している
現在、見てはいないけれども、信じて
言葉につくせない、輝きにみちた喜びにあふれている
それは、信仰の結果なるたましいの救いを得ているからである」
(ペテロの第一の手紙1章8-9節)
ヨハネによる福音書20章29節において
よみがえったイエスを目の前にしたトマスが
その十字架にかかった傷跡を見なければ信じないと言い
実際に見ることでやっと信じた時
イエスはトマスに言われました
「あなたはわたしを見たので信じたのか
見ないで信ずる者はさいわいである」
現在、わたしたちはイエスご自身の姿を見ることはなくとも
こうして信じる信仰生活を送っています
それは、彼を愛し、信じることで、平安と喜びを与えられながら
困難の中にあっても日々を生きているからです
どのような状態からでも
その求めに応じて
洗礼と聖霊によってたましいの救いを得ることができる
その幸いを実際に体験しているからこそ
たとえ目の前の事態がかんばしくなくとも
そこに奇蹟のようなパッとした展開がなくても
決して絶望することなく
それでもなお神を求めて信じて
やがて本当の平安を得る道へと導かれていくのです
「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛して下さった
それは御子を信じる者がひとりも滅びないで
永遠の命を得るためである
神が御子を世につかわされたのは
世をさばくためではなく
御子によって、この世が救われるためである
彼を信じる者は、さばかれない
信じない者は、すでにさばかれている
神のひとり子の名を信じることをしないからである
そのさばきというのは、光がこの世にきたのに
人々はそのおこないが悪いために
光よりもやみの方を愛したことである
悪を行っている者はみな光を憎む
そして、そのおこないが明るみに出されるのを恐れて
光にこようとはしない
しかし、真理を行っている者は光に来る
その人のおこないの、神にあってなされたということが
明らかにされるためである」
(ヨハネによる福音書3章16-21節)
とても悲しい出来事や、耐え難い事にあった時
それをすんなり受け入れるのはとても難しいことです
しかし、神にあるわたしたちは常に”聞く耳を持った羊”として
聖書にある約束と希望の言葉を信じ
決して光(=イエス)からはなれないように
滅びの道を歩まないように心して行きましょう
人間が非常に弱い者であることは
すでに神はよくご存知で
わたしたちに求められていることは
自分の弱さを知り、神に救われて、真理に従った生き方を選ぶこと
それは何か特別立派なおこないをするということよりも
困難に出会ったとき、光を求めて立ち上がる信仰なのです
どんな時も、信仰があれば神に目が向き
そこに希望を見出せますが
信仰という根がなければその木はやがて枯れてしまいます
根の側に水が見えなくても
根は水を求めて水のある方向に伸びようとし
そして、やがて水にたどり着き、木は生長するのです
根は信仰であり、水は神ご自身
そこに生きる木はわたしたちです
「きょう、み声を聞いたなら
神にそむいた時のように
あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない」
(ヘブル人への手紙3章15節)
信じることによって、そこに必ず神の助けがあり
信じることにより生まれる感謝と感動があります
辛い時こそ、信じることの大切さを知り
その心をかたくなにすることなく
神に希望を置いて進んでいきましょう
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