今週のみことば


2月2日

「しかし、役人たちの中にも、イエスを信じた者が多かったが
パリサイ人をはばかって告白しなかった
会堂から追い出されるのを恐れていたのである
彼らは神のほまれよりも、人のほまれを好んだからである」
(ヨハネによる福音書12章42-43節)


イエスのなす奇跡のわざを見た多くの役人たちは
イエスを信じていましたが
パリサイ人に遠慮して本心を明かすことはできませんでした
それは第一に自分の立場を重んじたからです

神を信じる信仰者と自負していながらも
その心は神ではなく、人に向いていて
人を恐れ、人に遠慮し
人から誉められることを求めている信仰であるならば
「正しいもの」をつかむことは難しいでしょう

36節には
「光のある間に、光の子となるために、光を信ぜよ」
と記されています
「光」とは「神ご自身」のこと
つまり、こうして神が救いを与えてくださるチャンスがある間に
神を信じ、神の子となりなさいと教えているわけですが
人の側ではなく神の側に立った正しい価値観を持とうとしないなら
自ら幸いになるための機会を逸してしまうのでした

パリサイ人にとっては
イエスが神であると人々が認めることは実に不都合で
そのためにイエスの言葉を信じようとする人々の足を引っ張るのです
しかし
イエスははっきりと自分の立場についてこのように述べています

「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなく
わたしをつかわされたかたを信じるのである
また、わたしを見る者は
わたしをつかわされたかたを見るのである
わたしは光としてこの世にきた」(44-46節)


ここにおいて
わたし=イエス
わたしをつかわされたかた=神
そして上記のみことばから
イエス=神とわかるのです

これだけはっきりとイエスが語っている言葉を聞いても
パリサイ人や彼らを恐れる人々は
この言葉を受け入れることはできませんでした

信仰者の間違いは
いつの時代も神の言葉を聞き入れないところから始まっています
神の言葉、つまり聖書を無視して正しい信仰はありえません

その聖書に記された言葉を曲げていくところから
人は虚栄を求め、偽善に走り
神の誉れよりも自らの誉れを喜ぶようになってしまうのです

「わたしがマケドニヤに向って出発する際、頼んでおいたように
あなたはエペソにとどまっていて
ある人々に、違った教えを説くことをせず
作り話や、はてしのない系図などに
気をとられることもないように命じなさい
そのようなことは
信仰による神の務めを果すものではなく
むしろ議論を引き起こさせるだけのものである」
(テモテへの第一の手紙1章3-4節)


昔から神の教えに反するさまざまの違った教えや
間違った空しい価値観が横行していましたが
現代にあっても
聖書の教えに反するものが多く存在しています
わたしたちはそういうものから離れ
また、それらと議論することなく
ただ聖書に記されたことを信じ
神を信じて進んでいきましょう

「シモン・ペテロが答えた
『主よ、わたしたちはだれのところに行きましょう
永遠の命の言葉をもっているのはあなたです』」
(ヨハネによる福音書6章68節)


なぜわたしたちが聖書を信じているかといえば
聖書に書いてあることが実際に成るからです
それがないならば誰も信じることはありません
聖書に記されたことを通して神の側に立った価値観を知り
人を恐れず、神をおそれて歩む時
そこには本当の平安と幸いがあります
これは聖書の言葉が「永遠の命の言葉」だからです

今、目の前の生活が不安定であっても
恐れず生きていけたらどんなに幸いでしょうか
もしああなったら、こうなったらどうしよう・・と
ただ不安に埋もれるのではなく
神の言葉を糧として
日々、励まされながら歩んでいきたいものです

「わたしは、むかし年若かった時も、年老いた今も
正しい人が捨てられ
あるいはその子孫が、食物を乞いあるくのを見たことがない」
(詩篇37篇25節)


神を信じて生きる者は
どのような状況にあっても
決して捨てられることもなければ
将来にわたって惨めな状態になることもありません
これは神の約束、希望の言葉です



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