今週のみことば


2月23日

「わたしは、神に生きるために
律法によって律法に死んだ
わたしはキリストと共に十字架につけられた
生きているのはもはやわたしではない
キリストがわたしのうちに生きておられるのである」
(ガラテヤ2章19-20節)

これを語るパウロ自身は生まれながらのユダヤ人=神の選民であり
罪人なる異邦人ではありませんが
人が義とされる、つまり罪から救われるのは
旧約の律法を完全に守ることによるのではなく
イエスを信じる信仰によるのだと知り
自らイエスを信じる者となりました

実際のところ
旧約の律法は人が生きていくための大切な教えや戒めではありますが
それを完全に守れるほど人間は正しい者ではありませんでした
だからこそ旧約時代にはたびたび罪の許しのために
罪のない子羊をさいて血を流す燔祭(はんさい)が捧げられていたわけです

「こうしてほとんどすべての物が、律法に従い
血によってきよめられたのである
血を流すことなしには、罪の許しはあり得ない
(ヘブル人への手紙9章22節)


また
人間が本来持つ弱さや、抱える心の問題についても
旧約新約とも以下のように記されています

ノアの洪水の後の記述
「主はその香ばしいかおりをかいで心に言われた
『わたしはもはや二度と人のゆえに地をのろわない
人が心に思い図ることは、幼い時から悪いからである』」
(創世記8章21節)


「口から出て行くものは、心の中から出てくるのであって
それが人を汚すのである
というのは
悪い思い、すなわち、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、誹(そし)りは
心の中から出てくるのであって
これらのものが人を汚すのである」
(マタイによる福音書15章18-20節)


このように
人間にはもともと悪いもの(罪)が心の中にあって
それを人の力で何とかしようと思っても
完全に正しく生きることなど不可能なのです
だからこそ
すでに旧約聖書の中に救い主キリスト誕生の予言があり
神が肉体(血)を持つ人間となってこの世に生まれ
十字架にかかり
その流された清い血を受けること(洗礼のバプテスマ)で
すべての罪から許される救いが人間に与えられることとなったのでした

かくして
常に律法にしばられていた時代は過ぎ去り
もはや燔祭が捧げられる必要もなくなりました
神なるイエスご自身が燔祭としてその肉体を捧げてくださったからです
つまり
「血を流すことなしには、罪の許しはあり得ない」
との律法は
イエスの名による洗礼を受けることによって守られ
それ以降はもう二度と血を流す必要はなくなったのでした
「キリストはすべて信じる者に義を得させるために律法の終りとなられたのである」
(ローマ人への手紙10章4節)

この一連の出来事について、今回最初に記したみことばでは
律法によって律法に死んだ
との表現がなされています

洗礼のバプテスマを受けた者は
すでにイエスと共に十字架にかかり
この世に一度死んだ者です
さらに聖霊のバプテスマを受けて内側に神ご自身が宿ることにより
新たに生きているわたしたちはもう元の自分ではなく
「キリストがわたしのうちに生きておられる」わけですから
その後の生活については
キリストの導きのうちにあって
律法にしばられない神にある自由と恵みのうちに生き
いかなる時も神を畏れ敬い信じて従い
最終的には神のために実を結ぶに至るよう
(神を知らない人々に対して証人となるように)
日々祈って進んでいかなくてはならないのです

「わたしの兄弟たちよ
このように、あなたがたも、キリストのからだをとおして
律法に対して死んだのである
それは、あなたがたが他の人、すなわち
死人の中からよみがえられたかたのものとなり
こうして
わたしたちが神のために実を結ぶに至るためなのである」
(ローマ人への手紙7章4節)


律法の行いによるのではなく
イエスを信じる信仰によって義とされる
これは
律法の行いによってはだれひとり義とされることがないためですが
”イエスを信じる”とひとくちに言っても
ただ口で「信じます」と告白するのみでは
その心が本当に信じているのかどうかわかりません
聖書はあくまでも
「信じてバプテスマを受ける者は救われる」(マルコ16章16節)
と教えています
その上で、救われた後の歩みをどうするか
その信仰生活の重要性について
コリント人への第二の手紙11章3節にはこのように記されています
「ただ恐れるのは
エバがへびの悪巧みで誘惑されたように
あなたがたの思いが汚されて
キリストに対する純情と貞操を失いはしないかということである」


なぜイエスに導かれて歩む信仰生活が必要かといえば
この世にはわたしたちを惑わす罠がたくさん存在しているからです
そんな中にあっても
わたしたちは聖霊の働きで怪しい話を見破り
欲に負けて落とし穴に陥ることなく
いかなるところに置かれても日々を平安のうちに過す術を教えられ
実際にそのように生きることができるようになるのです
しかし
エバのようについ誘惑に負けてしまうこともあり得ることですから
どちらに転ぶかという瀬戸際にあって
なおイエスの心を心とする選択ができるように
日ごろから神に対して真摯な心を持ちたいものです
本当に心から神を畏れているならば
道を踏み外す前にその心に恐れが来るでしょう
その信心がわたしたち自身を守ることになるのです

こうして
決して自分の正しい行いによって救われたわけではないわたしたちは
すべてのことを神に栄光を帰し
自分が偉いなどと思い上がるようなことがありませんように
以下のみことばを目標にして進んでいきましょう

「だからあなたがたは、神に選ばれた者
聖なる、愛されている者であるから
あわれみの心、慈愛、謙そん、柔和、寛容を身に着けなさい
互いに忍びあい
もし互いに責むべきことがあれば、ゆるし合いなさい
主もあなたがたを許して下さったのだから
そのように、あなたがたもゆるし合いなさい
これらいっさいのものの上に愛を加えなさい
愛はすべてを完全に結ぶ帯である
キリストの平和が
あなたがたの心を支配するようにしなさい
あなたがたが召されて一体となったのはこのためである
いつも感謝していなさい」
(コロサイ人への手紙3章12-15節)




<目次