今週のみことば


3月1日

「だから兄弟たちよ、このことを承知しておくがよい
すなわち、このイエスによる罪のゆるしの福音
今やあなたがたに宣べ伝えられている
そして
モーセの律法では義とされることができなかった
すべての事についても
信じる者はもれなくイエスによって義とされるのである」
(使徒行伝13章38-39節)

この使徒行伝2章の聖霊降臨以降
”イエスによる罪のゆるしの福音”がのべ伝えられるようになります
それを受けるには難しいことは何もなく
”信じる者はもれなくイエスによって義とされる”との約束でした

この救いが与えられるまでは
人はただひたすら律法を守ることを余儀なくされてきたのですが
モーセの律法を完全に守ることなどできるものではありません
それだけ人の心は清いものではなく
『父母を敬え』と言われても
状況によっては心のうちに父母をののしることもあるでしょう
そんな弱さを持っていながら
神よりの一方的な恵みによって救われるというのは
なんとありがたいことでしょうか

「しかし今や、神の義が、律法とは別に
しかも律法と預言者とによってあかしされて現された
それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって
すべて信じる人に与えられるものである
そこにはなんらの差別もない
すなわち、すべての人は罪を犯したため
神の栄光を受けられなくなっており
彼らは価なしに、神の恵みにより
キリスト・イエスによるあがないによって義とされる
のである」
(ローマ人への手紙3章21節−24節)


信じる人にはどんな人にも平等に与えられるこの救いとは
イエスの十字架の血によるあがない=洗礼を受けることであり
それは”価なしに神の恵みにより”与えられるべきものです
このような幸いな立場にされているわたしたちは
どこに誇るところがあるでしょう
全くありません
もはや人が正しいから救われるといった「律法の法則」は崩れ
代わりにイエスを信じる「信仰の法則」が与えられました(27節)

では
この「信仰の法則」にのっとって救われた者は
それまであった立法をすべて無効にしてしまうのでしょうか
決してそういうものではありません
上記のモーセの律法の例にあげた『父母を敬え』は
人間が生きていく上で重要な事柄です
元々、律法とはみなそういうものですから
わたしたちは救われたあとは
いよいよこの律法を確立する存在として
正しく成長するべく歩みを必要とされているのです(31節)

「あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより
信仰によるのである
それはあなたがた自身から出たものではなく
神の賜物である
決して行いによるのではない
それは、誰も誇ることがないためなのである
わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように
キリスト・イエスにあって造られたのである
神はわたしたちが良い行いをして過すようにと
あらかじめ備えてくださったのである」
(エペソ人への手紙2章8-10節)


一旦救われたからそれでもう完全なのではなく
これからは「神の作品」として生きていくにふさわしい教えを身に着け
開かれた道を進んでいくわけです
ペテロの第一の手紙3章21節には
洗礼のバプテスマについて
「からだの汚れを除くことではなく
明らかな良心を神に願い求めること」

と記されています

この世は心して生きていかなければ
大変な状況に陥る危険性に満ちています
そして
人はこの大変な状況に陥ると
冷静さを欠いてじっとしていられなくなり
何かジタバタと余計なことをしてしまう傾向があるのです
しかし
あせるとろくなことはありません

「もしおそければ待っておれ
それは必ず臨む。滞りはしない」
(ハバクク書2章3節)


ここでわたしたちはただ漠然と待つのではなく
希望を持って祈って待つのです
そして
今すべきことは何なのかを冷静に見極めていきましょう

祈ることなど何の力もないように思えますが
わたしたちが祈る先は
どんな人をも救い得る方であり
信じない人から見れば単なる捨てられた石
信じる者にとっては人生の基礎となる堅固な石です

「このイエスこそは
『あなたがた家造りらに捨てられたが
隅のかしら石となった石』なのである
この人による以外に救いはない
わたしたちを救いうる名は
これを別にしては
天下のだれにも与えられていないからである」
(使徒行伝4章11-12節)


「このキリストがわたしたちのためにご自身をささげられたのは
わたしたちをすべての不法からあがない出して
良いわざに熱心な選びの民
ご自身のものとして聖別するためにほかならない」
(テトスへの手紙2章14節)


「わたしたちの行った義のわざによってではなく
ただ神のあわれみによって
再生の洗いを受け、聖霊によって新たにされ
わたしたちは救われたのである」
(テトスへの手紙3章5節)


異邦人をも「選びの民」として救い
それを良いわざに熱心になるよう成長させてくださる神に感謝し
その心に報いるべく
わたしたちもまた神の心を継ぐ者として
日々祈って進んでいきましょう

「選びの民」とか「良いわざに熱心に」というと
何か自分が特別なものになったかのように錯覚し
そこに変な気負いが生まれたり
あるいは傲慢や偽善につながる場合もあります
そういうものは本当の信仰スタイルではありません

もっと自分にとって無理のない道を選択し
自分にあったレベル(分相応)を知り
それ以上になることを求めることなく
神から与えられた「分」を大切に育てるところに
神の祝福があります

すべてのことを神にゆだね
あせらず、また横着にもならず
自分に与えられた使命に忠実に歩むべく
神の知恵と力を与えられていきたいものです



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