今週のみことば


3月8日

「ヘロデが彼を引き出そうとしていたその夜
ペテロは二重の鎖につながれ
ふたりの兵卒の間に置かれて眠っていた
番兵たちは戸口で獄を見張っていた
すると、突然、主の使いがそばに立ち
光が獄内を照らした
そして御使いはペテロのわき腹をつついて起こし
『早く起き上がりなさい』と言った
すると鎖が彼の両手からはずれ落ちた」
(使徒行伝12章6-7節)

ヘロデ王によって捕らえられた獄中のペテロは
番兵の堅い守りの中で眠っていました
一方、その頃教会では
彼のために熱心な祈りが捧げられていました
そんな中、突然御使いが現れてペテロを起こします

何が起きたのかよくわからないまま
ペテロはとりあえず起き上がると
彼をつないでいた鎖が外れて落ちました
『帯をしめ、靴をはきなさい』
『上着を着てついてきなさい』
次々指示される御使いの言葉にペテロはそのまま従います
それでもまだ彼はそれが御使いだとはわかっておらず
ただ幻を見ているように感じていたのでした

ペテロとしては神の言葉に従っているとの自覚もないまま
言われる通り行動していくと
いつの間にか町に抜ける鉄門までやってきていて
それがひとりでに開き
彼は自由の身となったのでした

そこで彼は初めて気がつきます
『今はじめて本当のことがわかった
主が御使いをつかわして
ヘロデの手から
またユダヤ人たちの待ちもうけていたあらゆる災いから
わたしを救い出して下さったのだ』(11節)


このように監獄の中で、ただ眠っていたペテロでしたが
神の働きは確実に彼の上に現れていきました
その過程にあっては
ペテロ自身に神の助けが与えられているとの実感はなく
とにかく言われるままに任せて従ったわけで
結局彼は問題がすべて解決した段階で初めて神の助けを悟ります

人間的に考えれば、万事休す、もうダメというところまで陥っても
神の働きがあれば必ず助け出されること
また
そのために必要なのはただ神の言葉に従うだけだということが
ここでは教えられています

「従う」というのは決して難行苦行をしろというのではなく
今目の前に起こっている試練をそのまま受け入れ
祈って、その先自然と開かれる道を進んでいくということです
今何が起きていて、これから事態がどうなるのか
そんなことは何もわからない状態でも
眠りから起こされて、ボーっとしながら言われるまま従ったペテロのように
とりあえず自分の置かれたところでそのまますべき行動をする
そこからすべてが始まっていきます

神の働きというのは
進んでいる最中にはよくわからなくて
振り返ってみた時にはじめて気づくことが多いものです
ペテロも問題が解決し、御使いが離れてすべてを悟りました

大切なのは
まず神の言葉によって目を覚ますことで
それまで自分をしばりつけていたもの(思い)から解き放たれ
正しい方向へと導かれていくことです
そうでなくてはいつまでも監獄の中に閉じ込められたまま
前へ進むこともできません

ダニエル書3章には
ネブカデネザル王の立てた金の像を拝まないことで
火の燃える炉に投げ入れられる3人の信仰者の記述があります
3人が入れられた炉の中には
もうひとりの人が彼らと一緒に歩いていて
3人は燃え盛る炎の中でも無事に生きていました
その”もうひとりの人”とは神の御使いだったのです

また同じくダニエル書6章において
神に祈りを捧げることを禁止する王の命にそむいたダニエルは
ししの穴に投げ入れられましたが
彼も何ら害を受けることなく助け出されています

ダニエルたちは
彼ら自身が立派だから助けられたのでしょうか
決してそうではありません
すべてのことは神に栄光が帰されるためであり
どんなところからでも助け出される希望を
わたしたちは神に対して抱いていくことが大切なのです

どうせ後で助けるならば
初めから試練などなければいいものを・・・
人はしばしばそのように考えるかもしれません
しかし
試練を通してこそ人は自分の弱さと神の働きを実感するのです
ただぬるま湯のような環境にあっては
神を求めることも信じることも崇めることもしなくなるでしょう
こうして傲慢になっていくのが人間の悲しいところでもあります

昔のことを思い出して嘆いてみても
時は戻ることはありません
とにかく今わたしたちは前へ進むしかないのです
今あるところが自分の居場所なのだと自覚して
そこを良しとして進んでいく時に
必ず道は開けていきます
神のなされることは人間の想像をはるかに超えています
時が来れば答えは自ずと出てくるでしょう

「天が下のすべての事には季節があり
すべてのわざには時がある」
(伝道の書3章1節)


泣くことも笑うことも
愛することも憎むことも
戦うことも和らぐことも
すべて人間をとりまく事柄は神が支配し
そんな中でわたしたちには確実な希望が与えられています
それは
「神のなされることは皆その時にかなって美しい」(11節)
とあるように
すべては幸いにつながっていくということだからです

この希望を自ら捨てることなく
しっかりと前を向いて進んでいきたいものです



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