今週のみことば


3月15日

「そして主は彼に言われた
『わたしがアブラハム、イサク、ヤコブに
これをあなたの子孫に与えると言って誓った地はこれである
わたしはこれをあなたの目に見せるが
あなたはそこへ渡って行くことはできない』
こうして主のしもべモーセは主の言葉のとおりにモアブの地で死んだ
主は彼をベテペオルに対するモアブの地の谷に葬られたが
今日までその墓を知る人はいない
モーセは死んだとき120歳であったが
目はかすまず、気力は衰えていなかった」
(申命記34章4-7節)

イスラエルの民を率いエジプトを出てカナンの地を目指したモーセは
その地を山頂からすべて見せてもらった後
神の言葉通りにそこで死にました
40年間、指導者として神に選ばれ、神に導かれて
ここまで務めを果してきたモーセでしたが
以前、荒野のメリバの水のほとりで神の命令に背いたことにより
その時すでにカナンの地を見るのみで
入ることはできないと告げられていたのでした

荒野を旅する間、常に神の助けを頂きながらも
新しい試練が来るたび神に対して文句を言うイスラエルの民に
モーセはついに怒りを発します
水を出すために『岩に命じるように』と神から教えられていましたが
モーセは岩をたたいてしまったのでした
それでも一応水は出たものの
これでは神ではなくモーセの力で水が出たことになりかねません
すべては神のなせるわざであることを人々は知るべきであり
目に見える指導者の方を崇めてはならないのです

イスラエル人として生まれながらエジプトの王女の子として育てられ
その後、同胞とのトラブルからエジプトを追われたモーセは
やがて神の選びにより
イスラエル人の出エジプトの指導者として
再びエジプトに出向きます
こうして80歳でイスラエル人を率いて旅に出たモーセでしたが
彼は常に神の言葉に従い、知恵を得て進んでいきました

そんなモーセが
一度のあやまちでカナンの地に入ることができなかったことは
人間的に考えると残念にも思えます
しかし、その時モーセはすでに120歳でした
それでも彼は神から力を与えられ
目もかすまず気力も衰えてはいませんでしたが
すべてのことは神のご計画のうちにあり
その最後もまた神が良しとされた時に訪れたのです
そして、彼の遺体は神によって誰も知らないところに葬られました

生まれてから最後に至るまで
神のご計画のうちに数奇な生涯を生きたモーセは
偉大な指導者としてイスラエル人の心に残ると共に
その名は今日まで世界で広く知られています
また
マタイによる福音書17章においては
イエスと並んでモーセとエリヤの姿がイエスの弟子たちの前に現れています
それほど重要な人物として扱われるところにも
神がいかにモーセを愛しておられたかがわかるというものでしょう
ただ
どんな人であっても神と同列に並ぶことはできませんから
ここにおいても最後にはモーセとエリヤの姿は消えて
イエスだけが残ったと記されています
そして天から声が聞こえてきました
『これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である。これに聞け』
つまりは
どんな立派な人間であろうと神ではないということ
神のごとく扱ってはならないということです

こうしてモーセの生涯を見ていくとき
これを単に立派な指導者の伝記として見るのではなく
神に従って生きる人の生き様をここから学ぶこと
数奇な運命の中にあっても
神がいかにその人を愛し、時に応じて力を与えて用いてくださるかを知り
ひとつひとつの事柄を自分の中に生かしていく姿勢が大切です

人生の試練からは逃げ出そうとするのではなく
どんな困難があってもそこで平安をえるために
いよいよ神に近づく方向で進んでいけば
必ず神は進むべき道を開かれます
そして必要なのは
開かれた道、置かれた場所を良しとすることです

人生とはこうあるべき、こうあって欲しいと
自分の決めた理想や
他人の決める価値観が必ずしも正しいわけではありません
人の決める価値観がかえって足かせとなって
こんな人生ではつまらないとか
勝手に自分で見限っている場合もあるものです
そんな世の中の足かせから自由になり
神の与えられる価値観の中で生きる時に
本当の平安が与えられていくのです

「自由を得させるために
キリストはわたしたちを解放してくださったのである
だから堅く立って
二度と奴隷のくびきにつながれてはならない」
(ガラテヤ人への手紙5章1節)


「キリストイエスに属するものは、自分の肉を
その情と欲と共に十字架につけてしまったのである」
(同上24節)


お金や名誉が幸せを生むと信じる価値観は
人の心に常に「失う不安」を与えます
人間的に成功者になっても心が貧しければ満足感がありません

人を恐れ、人がどう思うか、「情」にばかりに気をとられていると
自分の自由な行動が妨げられ
「欲」があると、損得にこだわって道を誤るでしょう
だからこそ、この「情と欲」を十字架につけて葬り
新しく神にあって生きていかなくてはならないのです

人生の途中で一喜一憂することも多々ありますが
どんなところにあっても
神のわざを楽しむ人生であれば幸いです
そのためにも
神の導きに従って
開かれる道をそのまま進んでいきましょう



<目次