今週のみことば


5月24日

「モーセはまた言った
『主は夕暮れにはあなたがたに肉を与えて食べさせ
朝にはパンを与えて飽き足らせられるであろう
主はあなたがたが
主にむかってつぶやくつぶやきを聞かれたからである
いったいわれわれは何者なのか
あなたがたのつぶやくのはわれわれにむかってでなく
主にむかってである」
(出エジプト記16章8節)

紅海を渡ってエジプトの軍勢から逃れたイスラエルの民は
その時は大いに喜び、神に感謝しましたが
荒野に入り、水がなくなるとたちまちつぶやき始めます
そして
水が与えられると
次は肉やパンについてつぶやきます

エジプトにいた時には肉やパンを飽きるほど食べたではないか
どうせならあの時死んだ方がマシだった
こんな荒野で餓死させるために我々を導いてきたのか
そう言ってモーセに詰め寄るイスラエルの民
このつぶやきに神は
うずらの大群とマナを与えて答えます

民はモーセに対してつぶやきましたが
それは神に対してつぶやくのと同じことでした
彼らは常に目先のことだけで判断し
前の感謝を忘れ
試練に遭うと常に神に対してつぶやきを繰り返します

この前の15章26節において
民に水を与えた神は
民に対しておきてを立て、こう言われました
「あなたが、もしあなたの神、主の声に良く聞き従い
その目に正しいと見られることを行い
その戒めに耳を傾け、すべての定めを守るならば
わたしは、かつてエジプトびとに下した病を
一つもあなたに下さないであろう
わたしは主であって、あなたをいやすものである」


神がイスラエルの民に求めたものは
ただ神の定めた戒めに従い
神の言葉を聞き、神の目に良しとされる生き方を学ぶことでした
これはわたしたちに対しても求められていることであり
「あなたをいやすもの」である神は
病気だけでなく、その間違った考え方や人生の歩み方も
その信仰によって癒して(正して)くださるのです

神の助けを得ても、一時的に喜ぶだけで
すぐに忘れてまたつぶやくイスラエルの民には
いつまでも”祈ろう”とする気持ちがありませんでした
その気持ち(信仰)がないからこそ
何かあればまずつぶやくという悪い習慣があったのです

一人一人は自分の殻(から)を持っていて
正しいことを教えられても殻が邪魔をしてしまう場合があります
だからこそ
間違った殻は神にあって壊していただき
更に神にあって新しい自分になっていくことが必要なのです

今までの生き様をそこで一度終りにして新に生き直す
これは
神に救われて、みことばに従って歩む時にこそ可能であり
ここに神の良き実が実っていくわけです
そして
神によって新に立ち上がらされ、築かれる人生を
わたしたちは大切に保ちながら進んでいくのです

神によって恵まれ祝された人生を歩みたいと思うなら
神の言葉を内側にもっておくことです
世の中のものは価値観もすべて常に変わっていきますが
神の言葉は永遠です

「あなたがたが新たに生まれたのは
朽ちる種からではなく
朽ちない種から、すなわち
神の変ることのない生ける御言によったのである
『人はみな草のごとく
その栄華はみな草の花に似ている
草は枯れ、花は散る
しかし、主の言葉はとこしえに残る』
これがあなたがたにのべ伝えられた御言葉である」
(ペテロの第一の手紙1章23-25節)


どんなに華やかなものであっても
世の中のものは一瞬にしてダメになり
それに寄り頼んでいても空しいものです
わたしたちが寄り頼む先は神の言葉、聖書です

しかし
聖書のみことばについても
単に知識として探求したり、勝手に研究していると
そこには落とし穴が待っています
そもそも聖書は完全なものですから
人間が議論するようなものではありません
聖書のみことばはひとつひとつを自分の心に置きながら
それを生活に活かしてこそ意味があるのです

「聖書の予言はすべて、自分勝手に解釈すべきでないことを
まず第一に知るべきである」
(ペテロの第二の手紙1章20節)

「テモテよ、あなたにゆだねられていることを守りなさい
そして、俗悪なむだ話と
偽りの”知識”による反対論とを避けなさい
ある人々はそれに熱中して
信仰からそれてしまったのである」
(テモテへの第一の手紙6章20-21節)


人間の陥りやすい間違いが聖書には指摘されています
わたしたちは
信仰からそれていくような議論に熱中する者ではなく
みことばに従って神の前に正されていく者として
真摯に歩んでいきたいものです



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