今週のみことば


7月19日

「イエスがまた舟で向こう岸へ渡られると
大勢の群衆がみもとに集まってきた
イエスは海辺におられた
そこへ、会堂司のひとりであるヤイロという者がきて
イエスを見かけるとその足もとにひれ伏し
しきりに願って言った
『わたしの幼い娘が死にかかっています
どうぞ、その子がなおって助かりますように
おいでになって、手をおいてやってください』
そこでイエスは彼と一緒に出かけられた
大勢の群衆もイエスに押し迫りながらついて行った」
(マルコによる福音書5章21−24節)

こうして群衆にもまれながら進むイエスのところへ
12年間も病気で苦しむ女性が近づいてきました
彼女はその病気のためにたくさんのお金を使いましたが
良くなるどころか悪くなる一方でしたから
イエスのことを聞いて
『せめて、み衣にでもさわればなおしていただけるだろう』
との思いで、その衣にさわります
すると彼女の病気はたちどころに癒されたのでした

その時イエスは誰かが衣にさわったことを弟子に告げ
その人を探します
そこでペテロは言いました
『ごらんのとおり群衆があなたに押し迫っていますのに
だれがさわったかとおっしゃるのですか』
この女性の記述はマタイ9章やルカ8章にも出ており
ルカによる福音書8章46節では
ペテロの疑問に対するイエスの答えはこう記してあります
『だれかがわたしにさわった
力がわたしから出て行ったのを感じたのだ』

つまりは
ただイエスの周りを取り囲んでいるだけの群衆と違って
この病気の女性に対しては神の力が働いた
それは彼女が
『せめて、み衣にでもさわればなおしていただけるだろう』と
信仰を持ってさわったからです
そんな娘にイエスは言われました
『娘よ、あなたの信仰があなたを救ったのです
安心して行きなさい』

信仰を持って神に近づく者には
神もまた近づき、わざを成してくださる
この世にあってさまざまな悩みや苦しみからわたしたちを救うのは
神を信じ、心から求めていく信仰です

さて、その頃
会堂司ヤイロ娘が死んだとの知らせがイエスとヤイロのところに届きます
『あなたの娘はなくなりました
このうえ、先生をわずらわすには及びますまい』
その言葉を聞き流してイエスはヤイロに言われます
『恐れることはない。ただ信じなさい』
そして、ヤイロの家に行き
そこで嘆き悲しんでいる人々に対して言われました
『なぜ、泣き騒いでいるのか
子どもは死んだのではない。眠っているだけである』
この言葉を聞いて人々はイエスをあざ笑いましたが
その後、イエスの『少女よ、さあ起きなさい』との言葉により
娘は生き返ったのでした

”娘は死んだのではなく眠っているだけだ”
その信じがたい発言を聞いた時
群衆はイエスをあざ笑いました
それは彼らがイエスのことに興味はあっても
信じてはいなかったからです

イエスが十字架にかかって死に、よみがえり、ご昇天の後
聖霊を与えられて力を得た弟子たちは
恐れることなくイエスのことを伝道してまわるようになりました
それはパリサイ人や祭司たちにとって不都合であったため
彼らは弟子たちを捕らえて尋問します
それに対して、ペテロは聖霊に満たされて語りました

「民の役人たち、ならびに長老たちよ
わたしたちが、きょう、取調べを受けているのは
病人に対してした良いわざについてであり
この人がどうしていやされたかについてであるなら
あなたがたご一同も、またイスラエルの人々全体も
知っていてもらいたい
この人が元気になってみんなの前に立っているのは
ひとえに、あなたがたが十字架につけて殺したのを
神が死人の中からよみがえらせたナザレ人
イエス・キリストの御名によるのである
このイエスこそは
『あなたがた家造りらに捨てられたが
隅のかしら石となった石』なのである
この人による以外に救いはない
わたしたちを救いうる名は、これを別にしては
天下の誰にも与えられていないからである」
(使徒行伝4章8−12節)


神が人の肉体をもってこの世に生れてきたイエスは
その生涯のうちに多くの奇跡をなし、救いの道を与えましたが
多くの人々はイエスをあざ笑い
信じようとはしませんでした
しかし、イエスによる以外に救いはなく
イエスの名以外に人を救い得る名もこの世には与えられておらず
今日まで、イエス・キリストの名によって洗礼が行われることも
さまざまな祈りがなされることも
かつて弟子たちが毅然として主張し続けたように
聖書に記されたまま、何も変っていってはなりません

信仰という面においては
もしこの世に迎合して、一歩譲れば
その次はもっと、その次は更にたくさん譲らなくてはならなくなるでしょう
そして、そのうち神を、信仰を捨て
人はあっという間に神を離れてしまいます
奇跡を体験し、一時的にはいかにも信仰熱心であっても
根本的な部分で信仰が育っていないなら
調子よく行っている時はイエスを信じるが
悪くなると信じなくなり
やがて群衆の言葉に負けてしまうのは容易いことなのです

「イエスは彼女に言われた
『わたしはよみがえりであり、命である
わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる
また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない
あなたはこれを信じるか』」
(ルカによる福音書11章25−26節)


聖書に出てくる「命」や「死」とは
単にこの肉体が生きたり死んだりすることのみではなく
その人の人生が幸いな方向に向かうのか
あるいは
生きながらにしてまるで死んでいるかのごとく滅びに向かうのかという
一人一人の心や価値観といった内側の問題をもさしています
さまざまな死に直結する事態から人を救い、生かす
それが神から与えられる恵みであり
真に信仰者が求めていくところのものなのです

物事が悪くなっていく時には前兆があるのですが
人はしばしばそれに気がつきません
その道が滅びに向かっているのに気がつかない
それはとても恐ろしいことです
だからこそわたしたちは常に神と共に歩み
その道が正しいのか正しくないのかを教えられ
正しい方向へと常に軌道修正されながら
進んでいかなくてはならないわけです

聖書には
死人がよみがえり、病人が癒されるたくさんの記述があり
そこでは必ず”信じること”が求められています
今がどんな状態であっても神に希望をおいて信じていくこと
それがわたしたちに一番求められている基本姿勢です

「そして、希望は失望に終ることはない
なぜなら、わたしたちに賜っている聖霊によって
神の愛がわたしたちの心に注がれているからである」
(ローマ人への手紙5章5節)


悲しいことがあれば涙も出ますが
群衆のようにただ騒いで自暴自棄になることがありませんように
常に神にあって希望を失わず
それぞれに与えられた道を歩んでいきましょう



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