今週のみことば


8月16日

「彼らは海を渡り、ゲネサレの地に着いて舟をつないだ
そして舟からあがると、人々はすぐイエスと知って
その地方をあまねく駆けめぐり
イエスがおられると聞けば
どこでも病人を床にのせて運びはじめた
そして、村でも町でも部落でも、イエスがはいって行かれる所では
病人たちをその広場におき
せめてその上着のふさにでも
さわらせてやっていただきたいと、お願いした
そしてさわった者は皆いやされた」
(マルコによる福音書6章53-56節)

病人がそのまま床に乗せられてイエスの前に運ばれてくるとの記述は
わたしたちがそのままの自分、飾らない自分で
ひたすらその癒しを願い、神の前に出てくるのと同じです

教会へ来る、信仰をするというのは
格好の問題ではなく
いかにその心が神を求めているかが重要で
自分の嫌な部分(人に見せたくない欠点)もさらけ出し
神の前にへりくだっていく心が問われているのです

そして
こうして神の前にそのままの自分で出てきた後は
それが”衣のふさ”でもいいからという気持ちで神に触れることを求めるなら
各々の持つ病(心も含めて色んな意味で患っているところ)は
やがて癒されていくでしょう
それは
”神に触れること=生命の真髄に触れること”だからです

さて、”衣のふさ”について
民数記15章37-39節には以下のように記されています
「主はまたモーセに言われた
『イスラエルの人々に命じて、代々その衣服のすその四隅にふさをつけ
そのふさを青ひもで、すその四隅につけさせなさい
あなたがたが、そのふさを見て
主のもろもろの戒めを思い起こして、それを行い
あなたがたが自分の心と、目の欲に従って
みだらな行いをしないためである』」


このように、”衣のふさ”とは
本来それによって自らを戒めるものでしたが
やがてそのふさを大きくして
自らを立派に見えるように飾ろうとする者が現われてきました
それが偽善者パリサイ人の存在です

「そのときイエスは、群衆と弟子たちとに語って言われた
『律法学者と、パリサイ人とは、モーセの座にすわっている
だから、彼らがあなたがたに言うことは、みな守って実行しなさい
しかし、彼らのすることには、ならうな
彼らは言うだけで、実行しないから
また、重い荷物をくくって人々の肩にのせるが
それを動かすために、自分では指一本も貸そうとはしない
そのすることは、すべて人に見せるためである
すなわち、彼らは経札を幅広くつくり、その衣のふさを大きくし
また、宴会の上座、会場の上席を好み
広場であいさつされることや
人々から先生と呼ばれることを好んでいる』」
(マタイによる福音書23章1-7節)


神を崇めていると言いつつも、実はその心に自分を誇り
人から如何に誉められるか、良い扱いを受けるか、に熱心なパリサイ人の姿は
信仰しつつも、わたしたちもいつの間にか陥る恐れのある姿です
だからこそ
わたしたちは常に”そのままの自分”で神の前に出ることを第一とし
その大切さを繰り返し教えられながら
自らを戒めていく必要があるのです

そうでなければ
自分では熱心に信仰をしているつもりでも
いつの間にか的のはずれた道を歩んでいるかもしれません
実際のところパリサイ人は
神の戒めよりも昔の人の言い伝えを重視して歩んで
自ら神に遠ざかる者となっていました

「そこでパリサイ人と律法学者たちとは、イエスに尋ねた
『なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人の言い伝えに従って歩まないで
不浄な手でパンを食べるのですか』
イエスは言われた
『イザヤはあなたがた偽善者についてこう書いているが
それは適切な預言である
”この民は、口さきではわたしを敬うが
その心はわたしから遠く離れている
人間のいましめを教えとして教え
無意味にわたしを拝んでいる”
あなたがたは、神のいましめをさしおいて
人間の言い伝えを固執している』
また、言われた
『あなたがたは自分たちの言い伝えを守るために
よくも神のいましめを捨てたものだ』」
(マルコによる福音書7章5-9節)


その後
外から体の中に入るもので人を汚すことができるものは何もなく
人の中から、つまり人間の心から出てくる”悪い思い”こそ人を汚すのだ
ということが教えられています(14-23節)
(*悪い思い・・・みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺
    好色、ねたみ、悪口、傲慢、無分別など)

「最後に、兄弟たちよ
わたしたちは主イエスにあってあなたがたに願いかつ勧める
あなたがたが、どのように歩いて神を喜ばすべきかを
わたしたちから学んだように
また、いま歩いているとおりに、ますます歩き続けなさい」
(テサロニケ人への手紙4章1節)


わたしたちが常に”そのままの自分”で神の前に出るためには
”己を捨てる”必要があり
それが神を喜ばせることにつながっていきます

ひとりひとりの人生がどのような展開になっていくのかは
誰にもわからないことですが
もし自分の思いや願いとは違った道が開かれた場合
そこで従って歩んでいけるかどうか
それも”己を捨てる”ということでしょう

「さて、主にある囚人であるわたしたちは、あなたがたに勧める
あなたがたが召されたその召しにふさわしく歩き
できる限り謙虚で、かつ柔和であり
寛容を示し、愛をもって互いに忍びあい
平和のきずなで結ばれて
聖霊による一致を守り続けるように努めなさい」
(エペソ人への手紙4章1-3節)


「こうして、あなたがたは、神に愛されている子どもとして
神にならう者になりなさい
また、愛のうちを歩きなさい
キリストもあなたがたを愛して下さって
わたしたちのために、ご自身を、神へのかんばしい香りのささげ物
また、いけにえとしてささげられたのである」
(エペソ人への手紙5章1-2節)


わたしたちがおのおの
”召されたその召しにふさわしく歩き”
”神にならう者になり”、”愛のうちを歩く”
ためには
やはり”己を捨てる”ことが必要不可欠です

それは決してパリサイ人のように表面上だけの偽善的歩みではなく
彼らが第一に望む名誉や栄華を求めることのない歩み方です
パリサイ人は信仰の道を律法でわざわざ難しくし
自らも、また他の人も
真の信仰から遠ざけるように仕向けていました
神が人に求める信仰は
偽善ではなく心からのものであることをもうひとたび認識し
それぞれに与えられた道で、自分の分に忠実に歩んでいきましょう

信仰生活の継続は、サーカスの玉乗りに似ています
玉の上では少しずつ動き続けている必要があり
動きが止まれば玉から落ちてしまいます
教会へ集うことも、日々祈るこも、自らを省みることも
地道な動きの繰り返しが信仰の成長につながり
個々を活かすのです

幸いなことには
わたしたちはイエスさまという人生の最高の指導者を与えられています
この指導者は完全無欠
すべてをみそなわし
ひとりひとりの人生を幸いへと導いてくださる方です
そういう指導者に恵まれていることに感謝して
新しい週も力を与えられて進んでいきましょう



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