今週のみことば
9月6日
「それで、わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを
岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう
雨が降り、洪水が押し寄せ
風が吹いてその家に打ちつけても、倒れることはない
岩を土台としているからである
また、これらの言葉を聞いても行わない者を
砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができよう
雨が降り、洪水が押し寄せ
風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまう
そしてその倒れ方はひどいのである」
(マタイによる福音書7章24-27節)
ここでいう”岩の上に家を建てる”とは
信仰の土台をイエスに置くことであり
聖書のみことばに根ざした信仰生活を送ることを表わしています
上記のみことばを語られたイエスを見て
群衆はその教えに驚きました
それは単に律法学者が教えるようではなく
権威ある者のように教えられたからです(28-29節)
聖書のみことばは
権威ある者、つまり神であるところのイエスご自身の言葉で
その言葉自体はわたしたちの中に生きて働くものです
そのため、実際にその言葉を聞いて後
行う者となることこそ重要なのです
わたしたちの教会は
イエスご在世当時の教えをそのまま受け継ぐ初代教会を目指しており
学者の説く神学ではなく
聖書がいかに語っているかを最重要視しているわけですが
時代と共に変っていく人の教えに流されていると
聖書のみことばを土台とする信仰スタイルから外れ
やがて世の波風(試練)に押しつぶされてしまうことになりかねません
ルカによる福音書15章においては
放蕩息子の話が出てきます
正しい信仰の上に堅実な生活を築いている父親から離れた息子は
お金という不安定な土台の上に自分の生活を築こうとしましたが
その土台はすぐになくなってしまいました
すべてをなくした息子は
やがて父のことを思い出し
自分を息子としてではなく使用人として置いてもらおうと
自らを低くして父の元に戻っていきます
彼の人生の土台はその時点から変っていきました
「あなたがたがこんなにも早く
あなたがたをキリストの恵みの内へお招きになったかたから離れて
違った福音に落ちていくことが
わたしには不思議でならない
それは福音というべきものではなく
ただ、ある種の人々があなたがたをかき乱し
キリストの福音を曲げようとしているだけのことである」
(ガラテヤ人への手紙1章6-7節)
「神を知らなかった当時
あなたがたは、本来神ならぬ神々の奴隷になっていた
しかし、今では神を知っているのに
否、むしろ神に知られているのに
どうして、あの無力で貧弱な、もろもろの霊力に逆もどりして
またもや、新たにその奴隷になろうとするのか」
(ガラテヤ人への手紙4章8-9節)
真の神を知らなかった時には
人は世の中の言い伝えにその自由を奪われ
人が造り出した神々をおそれ
はかなく消え行く富や名誉に価値を置いていましたが
聖書の教える福音にふれ、その救いを受けて後は
信仰という土台の上に自分の人生を築き上げる者とされました
ところが
現実には、そこにはさまざまな惑わしがあり
真の神を知りつつも
世の中の価値観に逆もどりして
自ら再び世の中の奴隷となってしまう危険に満ちています
「狭い門からはいれ
滅びにいたる門は大きく
その道は広い
そして、そこからはいって行く者が多い
命にいたる門は狭く
その道は細い
そして、それを見いだす者が少ない」
(マタイによる福音書7章13-14節)
聖書に記されている言葉はイエスが直接語られたものであり
わたしたちの人生の土台となるものですが
その大切な教えが人の思いで変えられ
しかも時代と共に流行のようにどんどん変っていくのは
非常に憂うべきことです
イエスが語られた土台と
その後の時代に語られた土台が違う場合
一体どちらにつくのが正しいのか
冷静に考えてみなくてはならないでしょう
人間の考える神学というものは
あくまでも人間が想像している世界にすぎず
それがもし真実であるなら
必ずそこに証が伴います
「にせ預言者を警戒せよ
彼らは、羊の衣を着てあなたがたのところに来るが
その内側は強欲なおおかみである
あなたがたは、その実によって彼らを見分けるであろう
茨からぶどうを、あざみからいちじくを集める者があろうか
そのように、すべて良い木は良い実を結び
悪い木は悪い実を結ぶ
良い木が悪い実をならせることはないし
悪い木が良い実をならせることはできない」
(マタイによる福音書7章15-18節)
聖書のみことばを人生の正しい羅針盤として
試練の時もそれによって導かれていけば
どんな道も迷うことはありません
注意しなくてはならないのは
サタンも神に似た奇蹟を行い、人を惑わすということです
しかし、そこにどんな実(結果)が伴ってくるのか
それによって歩みが正しいのかそうでないのかがわかるでしょう
人生にはさまざまな試練がつきものですが
どんなところに置かれても
”神は確かに生きて働いてくださっている”との実感があれば
その信仰生活は本物です
時代は変っても常に揺るがないところの土台を持ち
どのような教えの風が吹いても
それに動じないで進んでいく者でありたい
これこそ真の平安を得る道だからです
そのために
狭き門からはいる努力を怠ることなく
祈り、求めて進んで参りましょう
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