今週のみことば


9月13日

「さて、そこに38年のあいだ病気に悩んでいる人があった
イエスはその人が横になっているのを見
また長い間わずらっていたのを知って
その人に『なおりたいのか』と言われた
この病人はイエスに答えた
『主よ、水が動く時わたしを池に入れてくれる人がいません
わたしがはいりかけると、他の人が先に降りて行くのです』
イエスは彼に言われた
『起きて、あなたの床を取りあげ、そして歩きなさい』
すると、この人はすぐに癒され
床を取りあげて歩いて行った」
(ヨハネによる福音書5章5-9節)

エルサレムにはベテスダと呼ばれる池がありました
そこには時々主のみつかいが降りてきて水を動かし
その時まっ先に水に入った者はどんな病気も癒されたので
周りにはたくさんの病人たちが水の動く時を待っていました

そんな中、38年のあいだ病気で悩む人にイエスは目をとめました
『なおりたいのか』そうたずねることは失礼なようにも思えますが
これは、彼を癒そうとしていることを示していたのでしょう
しかし、彼はその問いには答えず
ただ自分の置かれた状況を嘆いただけでした

結局彼は、水が動く動かないに関係なく
イエスの言葉によって癒されます
彼にとっては、水が動かなければ、そしてその時まっ先に入らなければと
それしか癒される方法はないと思っていたことでしょう
ところが、方法はそれだけではなかった
人の思いと神のご計画はしばしば違います
人の思いに固執することで、かえって神の働きを阻害しているかもしれません

ベテスダの池の周りにいるのは、みんな病んだ人ばかりです
だから誰も助けてくれないし、当てになりません
この世の中にあっても
人はみんな何らかの悩みを抱えていて
人が何とかしてくれるかもと期待しても、失望するのがおちでしょう
人を見る(当てにする)ことの愚かさをここで教えられます

ああなりたいこうなりたいと、多くの願いを持ちながら
実際には何もなっていかないのは
ただ自分の事を第一に考えているからです
祈りとは、自分の願いだけのものではなく
あくまでも神を拝するものであることを忘れてはなりません

今、神に対して、何を思い、何をしているか
いかにもして神を愛し、畏れ、敬い、従おうとしているか
その心がいつも問われているのです

「病」とは、病気そのものだけを指すのではなく
神を信じることが出来ない心や、みことばに従えない心
自分を誇ること、恵みを感謝できないことなど
さまざまな心の状態を示しています
それを信仰に立つことでなんとかしていきたいと祈り
何とかしようと自分で踏み出す努力をする時
その切なる求めに応じて神は必ず働いてくださいます

水が動かなければ、そしてまっ先にそこに入らなければ病は癒されないと
境遇や環境に固執する自分の思い込みにしばられることなく
神は信じる者を常に恵もうとしてくださっているとの心を理解し
礼拝においても
みことばを心に留めながら、その真意をつかんでいきましょう

安息日礼拝は
ただ教会の椅子に毎週座っていればいいというものではなく
そこで何かを教えられようと、求めていくのが大切です
人は外見(行為)を見るが、神は心を見ることを意識し
人はどう生きていくべきなのかを、みことばを通して教えられる
もしそれがないなら
ただ礼拝に集うという行為だけに価値を置くような
律法時代の、行いにこだわる安息日礼拝になりかねません

「そこでまた、彼は
いつも生きていて彼らのためにとりなしておられるので
彼によって神に来る人々を、いつも救うことができるのである」
(ヘブル人への手紙7章25節)


人間の祭司は死ぬとその務めを終えなくてはなりませんが
イエスはずっと変らず祭司の務めを持ち続けておられ
いつでも求める人に救いをほどこすことができるのです
そして
神であるイエスご自身がいけにえとして自分をささげて
洗礼と聖霊とによる救いが与えられて以来
律法によって人が罪に定められる時代は終りました

人間の祭司ではなく
神ご自身が大祭司となってわたしたちを救い、導き、助けて下さっている
それぞれ置かれる境遇もさまざまではありますが
皆、どんな状態でも神にあって心満たされ
平安に過すことができるのです
そのために、もうひとたび神の尊厳を思い
心から神を慕い、敬い
己を低くしてそのみことばに従っていきましょう



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