今週のみことば


9月20日

「ヨセフは兄弟たちに言った『わたしに近寄ってください』
彼らが近寄ったので彼は言った
『わたしはあなたがたの弟ヨセフです
あなたがたがエジプトに売った者です
しかしわたしをここに売ったのを嘆くことも、悔むこともいりません
神は命を救うために、あなたがたよりさきにわたしをつかわされたのです
この二年の間、国中にききんがあったが
なお五年の間は耕すことも刈り入れることもないでしょう
神は、あなたがたのすえを地に残すため
また大いなる救いをもってあなたがたの命を助けるために
わたしをあなたがたよりさきにつかわされたのです』」
(創世記45章4-7節)

ヤコブには12人の子どもがいました
彼はその中でも特別ヨセフをかわいがったので
他の兄弟達はヨセフのことを憎むようになっていました
やがてその思いは強くなり
兄弟達はヨセフを奴隷として売り飛ばしてしまいます

エジプト王に仕える役人ポテパルのところへ売られたヨセフですが
彼には神がついていたので
彼のなすことはすべて祝され、栄えさせられました
そして、その様子を見たポテパルは
ヨセフを信頼し、家のものをすべて任せるまでになるのでした

ヨセフにとって奴隷として売られるのは辛いことでした
しかし
神にある彼は、良い主人に恵まれ、そこで一生懸命に働きます
また、ポテパルも、ヨセフには神がついていると気づく人でしたので
お互いが信頼しあう良い関係を築くことができました

その後、ヨセフは再び試練にあい、投獄されますが
そこでもまた彼は監守長の信頼を受け
監獄にいる囚人を管理する役に用いられます
神は常にヨセフと共にあって、彼の仕事を祝されたからです

どんなところに置かれても決して投げやりにならないヨセフ
彼は神に用いられることで、どこにあっても幸いを得ました
また、彼が出会う相手も神に用いられ
こうしてお互いの関係は上手くいき
結果的にはいつもヨセフは良いポジションを確保していたのです
これは彼が意図的になしたことではなく
ただ心から神を信頼して進む時に与えられる神の導きによるものでした

監獄にいる時に、王の給仕役と料理役の夢を解き明かしてから2年後
王が不可解な夢を見て、それを誰も解く事ができなかったために
急遽ヨセフが呼び出されます
王の夢が、これから7年間の豊作と続く7年間のききんを予言しているとわかると
王はヨセフをエジプト全国の宰に任命し、すべてをヨセフにまかせたのです
監獄にいる囚人が一国の宰になるという信じがたい出来事は
すべて神のご計画でした

やがて予言の通りに7年間の豊作があり
その間ヨセフはたくさんの穀物を倉に貯蔵します
そして、次に7年間のききんが起こり、2年が経過した頃
かつてヨセフを奴隷として売った兄弟達がエジプトに食料を求めてやってきます
彼らに自分の身元を明かすヨセフ
驚きおののく彼らにヨセフは言いました
『わたしをここに売ったのを嘆くことも、悔むこともいりません
神は命を救うために、あなたがたよりさきにわたしをつかわされたのです』


ヨセフは心から神を信頼する人で
彼の信仰はずっと試練の下にある彼を支え、そこには常に神の証がありました
これまでのことはすべて神のご計画なのだから恨まない
実際、すでにさまざまな証が与えられ、今こうして国の宰として用いられている彼は
ただ神に栄光を帰していくのでした

信仰の根本は、神への心からの信頼です
自分では間違いなく信仰しているつもりでも
もしそこに平安が与えられなかったり、何か確信が伴わないなら
そこには何か教えられることがあるはずです
神は決してえこひいきの神ではなく
すべての人を幸いに導こうとしてくださっているのは間違いありません
ところが、そんな神の心に対して
わたしたちが純粋な心で求めているかどうかが問題なのです

創世記4章において
カインとアベルの兄弟はそれぞれ神に捧げものをしますが
神はカインの捧げものを退け、アベルの捧げものだけ受け入れます
同じように神に対して捧げたものが、なぜこのような扱いを受けたのでしょうか

「信仰によって、アベルはカインより優れたいけにえを神にささげ
その信仰によって、正しい者であると証明されました
神が彼のささげ物を認められたからです
アベルは死にましたが、信仰によってまだ語っています」
(ヘブル人への手紙11章4節)

「カインのようになってはなりません
彼は悪い者に属して、兄弟を殺しました
なぜ殺したのか
自分の行いが悪く、兄弟の行いが正しかったからです」
(ヨハネの第一の手紙3章12節)


自分の捧げ物が受け入れられなかったことに対して腹を立て
顔を伏せるカインに神は言われました

『どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。
もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか』
(創世記4章6節)


神が受け入れる基準は捧げものの優劣ではなく、その心(信仰)です
カインは、神に対して自分の捧げ物を見せることには熱心でしたが
自分の中に神を崇める心が欠けていることを指摘され
それが図星であったために腹を立て、アベルを殺したのです
もしカインが自分の間違いに気づき、悔い改めていれば
彼は決して殺人を犯すことはなかったでしょう
しかし
怒りはたちまちサタンに利用され
事態を最も悲惨な方向へと向かわせてしまうのでした

人間の心とは実に弱いものです
信仰する自分の本心は何だろうかと自分の心に問いかけてみた時
信仰信仰と言いつつも、実は神をおそれ敬うことよりも
ともすれば、自分が成功して
自分を誇るために神を利用しようとしているかもしれません
そのために
”祈ってもちっとも祈りがきかれない”といらいらしていないでしょうか
また
優れた信仰者としての自分を誇ろうとしているかもしれません
そのために
ただ”見せること”に一生懸命になっていないでしょうか

成功を勝ち取ろうとあくせくしなくても
必要に応じて神は必ずその人にふさわしいポジションを用意してくださいます
ヨセフの記述は、世にいうところの成功物語ではありません
彼は自分が望んでそのポジションについたのではなく
神によって導かれたのです
人生においてこれほど確かな道はなく
だからこそ彼のなすことはすべて良い結果を生んだのでした

神の道は、しばしば人の想像を超えたところに開かれていきます
その間にはさまざまな試練があり
それがいよいよ神に祈り求めていく機会となって
わたしたちを成長させるのです
そこで試されるのは、ただ神を純粋に信頼していく信仰であり
そこには必ず”こういうことだったのか”と納得する神の証が伴うので
どんなところにあっても平安が与えられるわけです

どんなところに置かれても
そこで与えられた仕事を一生懸命できるのは
神を信頼し、すべてをゆだねていればこそであり
だまされ、落とし込まれ、忘れ去られ
それでもずっと神を信じ、祈り求めたヨセフの姿は
信仰者の見本です

「もし神がわたしたちの味方であるならば
だれがわたしたちに敵対できますか」
(ローマ人への手紙8章31節)


聖書のみことばは語り始めるときりがありませんが
信仰の基本として最も重要なポイントは以下のとおりです

「事の帰する所は、すべて言われた
すなわち、神を恐れ、その命令を守れ
これはすべての人の本分である」
(伝道の書12章13節)


神の限りない大きさと尊厳をもう一度思い起こしながら
各々が開かれた道を勇気をもって忠実に歩んでいきましょう



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