今週のみことば
9月27日
「するとエリシャは彼に使者をつかわして言った
『あなたはヨルダンへ行って七たび身を洗いなさい
そうすれば、あなたの肉はもとにかえって清くなるでしょう』
しかしナアマンは怒って去り、そして言った
『わたしは彼がきっとわたしのもとに出てきて立ち
その神、主の名を呼んで、その箇所の上に手を動かし
らい病をいやすのだろうと思った』」
(列王紀下5章10-11節)
スリヤ王の軍勢の長であるナアマンはらい病をわずらっていましたが
イスラエルから連れ帰った少女によって
イスラエルには預言者がいて、病気を癒すのだと教えられます
それをスリヤ王に告げると、すぐさまイスラエルへ行くように勧められたので
彼はたくさんの贈り物を持って出発します
”ナアマンのらい病を癒してほしい”とのスリヤ王からの手紙を読んで
イスラエルの王は敵国の軍勢の長が難題を持ってきたと腹を立てました
しかし、それを聞いた預言者エリシャは王をなだめ
ナアマンを自分のところに連れてくるようにと告げます
エリシャのところへ行くナアマン
彼を出迎えたのはエリシャではなく、彼の弟子でした
そして告げられた言葉は
『あなたはヨルダンへ行って七たび身を洗いなさい
そうすれば、あなたの肉はもとにかえって清くなるでしょう』
というものでした
スリヤ軍勢の長という立場にあるナアマンにとっては
当然エリシャ自身が出てきて、直接祈ってくれると思っていたので
弟子が出てきただけという扱いも
告げられた内容も非常に腹立たしく
怒って帰ろうとします
ところが、彼のしもべ達の言葉によってナアマンは考え直し
言われたとおりヨルダン川で7回その身を洗いました
すると彼の病気は癒され、肉体は元通りとなったのです
この病気が治るためならなんでもするという覚悟でいたはずのナアマンでしたが
いざ、自分の想定外の行動を要求されると
自分は軍勢の長だというプライドがじゃまをして
非常に簡単な要求でさえも一時は拒んでしまいます
また、彼にとって
病気の体を人前にさらすことも許しがたいことであったでしょう
しかし
そんな頑固なナアマンに対し、従うことを親身になって勧めるしもべ達
良き信仰の導き手を持つことの幸いと
最終的に従う道を選んだナアマンの、自分を捨てる決断は
大いに教えられるものがあります
わたしたちの人生には
思い通りに行かない試練がたくさんあり
それにいちいち腹を立てていればきりがありません
一見、恥をかくように見えること(プライドが傷つくこと)でも
そのまま進まなくてはならないこともあるでしょう
もし、常に自分が格好良くあることばかりを願っていたら
たとえその先に幸いが待っていても
とても進むことはできません
先週のヨセフの話と同様に
神がさなれることには、なぜ?と思えるようなことも多々ありますが
今はその理由はわからなくても
ただ従って、開かれる道をそのまま歩んでいれば
後に必ず証が与えられます
聖書に書いてある話は単なる物語ではなく
いずれわたしたちが似たような試練を通る時のために
そこでどのように歩み、どう勝利するのかを
あらかじめ教えられるものです
よって、それは遠い世界の出来事ではなく
今のわたしたちに直接生かされるものであり
大切な人生の指針なのです
「イエスは、また人々に語ってこういわれた
『わたしは世の光である
わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく
命の光を持つであろう』」
(ヨハネによる福音書8章12節)
試練はすべての人に色んな形でやってくるものですが
神を信じ、その道にしたがっていこうとする者には
そこは闇ではなく、神の光によって照らされています
自分のもっている恥を神の前に降ろし
不必要なプライドを捨て、ただ神の前に己を低くしていけば
必ず平安と、先への希望が与えられるでしょう
それでも
神を信じることなく、自分勝手に生きている人でも
一見平安に生きているかのように見えることもあり
それについてマラキ書3章14-15節には
以下のような神への反発が記されています
『神に仕えることはつまらない
われわれがその命令を守り
かつ万軍の主の前に、悲しんで歩いたからといって
なんの益があるか
今われわれは高ぶる者を、祝福された者と思う
悪を行う者は栄えるばかりでなく
神を試みても罰せられない』
神をおそれず、ただお金や名誉を頼みとし
高慢で、悪事を行うような人々が
世の中ではいかにも成功していて幸せなように見えても
そこには神よりの本当の祝福はありません
そのため、平安を与えられることはなく
不安から逃れるためにいよいよ貪欲になっていくのです
そして
神をおそれ、その道に従って行く人は
そうでない人との違いを必ず知るようになるでしょう
「そのとき、主を恐れる者は互いに語った
主は耳を傾けてこれを聞かれた
そして主を恐れる者、およびその名を心にとめている者のために
主の前にひとつの覚え書きが記された
万軍の主は言われる
彼らはわたしが手を下して事を行う日に
わたしの者となり、わたしの宝となる
また人が自分に仕える子をあわれむように
わたしは彼らをあわれむ
その時あなたがたは、再び義人と悪人
神に仕える者と、仕えない者との区別を知るようになる」
(マラキ書3章16-18節)
ナアマンの病が一瞬にして癒されたように
神の業はあざやかなものです
そんな全能の神をあざむくようなことがありませんように
自分の立場や面子はさておいて
進むべき道を潔く選択していきましょう
かつてエデンの園で何不自由なく暮らしていたアダムとエバは
サタンの誘惑で神をあざむきました
食べてはいけないとされた木の実を食べることで目が開かれ
自分達が裸であることに気づいた彼らは
自ら恥をかくそうとして
やがて朽ちていくイチジクの葉で身をおおうことを考えます
更に
自分達が無防備であると気づいたなら
いよいよ神に頼っていくべきところを
今度は神の顔を避けて隠れてしまうのでした
そして
せっかく神が与えてくださった幸いを自ら失い
その後、エデンの園を放逐され
苦労を背負って生きる者となっていくのです
神のなされることは一番良い事です
祝福を願って預言者のところへやってきたのに
自分の思いにより、与えられるべき幸いを失いかけていたナアマンの姿から
人の運命がどこで分かれてしまうのかが教えられます
時が来れば事は動き
すべてのことは結果があらわれてきます
世の中の間違った価値観に流されることなく
神の前に謙遜になって
この信仰の上に幸いな人生を築いていきましょう
<目次