今週のみことば
10月31日
「あなたがたは地の塩である
もし塩のききめがなくなったら
何によってその味が取りもどされようか
もはや、なんの役にも立たず、ただ外に捨てられ
人々にふみつけられるだけである
あなたがたは、世の光である
山の上にある町は隠れることができない
また、あかりをつけて、それを枡の下におく者はいない
むしろ燭台の上において
家のすべてのものを照らさせるのである
そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かし
そして、人々があなたがたのよいおこないを見て
天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい」
(マタイによる福音書5章13-16節)
塩の魅力は本来その味にあり
もし塩から味がなくなれば、その価値も失せてしまいます
人の魅力もこれに似て
もし生れ持った魅力が引き立てば、その人は幸いですが
魅力を輝かせる「光」を持っているかどうかが重要なポイントです
光とは神ご自身であり
救われたわたしたちは、その光によって輝かされています
神がわたしたちの中の何を光らせてくださるのかは
自分でもわからない場合が多く
実際に輝かせていただいていても気づかなかったり
あるいは、自分で輝いているかのように勘違いしているかもしれません
もし自分の力で光っているのだと勘違いするなら
それは神を正しく認識していないからで
神の光を正しく反射することはできません
大切なのは神の栄光が第一であること
自分の栄光を求めて頑張っても
いつかは挫折が待っています
神の光によって導かれ
その光を世の中で輝かせることは
すなわち良い行いにつながるもので
それを見る時、世の中の人々は神を崇めるようになるでしょう
神の光に導かれる生活=神と共に歩む信仰生活であり
それが習慣となっているうちは全く普通の生き方と感じるのですが
いつの間にか自分の力で輝いていると勘違いし
神さまから目が離れていくようになると
そういう生活もまたすぐに普通のこととなってしまいます
気がつけば神と共に歩む生活からは遠くはなれ
それはそれで楽で良いように一時的には感じる一方で
何か心の中に穴が開いたような感覚に陥り
それでまた神さまに立ち返ればいいものを
なぜか別のものを探してさまようケースも少なくありません
神以外のものに平安を求めても得られないのに
また、神以外にわたしを輝かせてくださる光はないのに
人の心が神から離れていくのはとても簡単で
こうして人はせっかくの魅力が輝かない原因を自ら作ってしまうのでした
「怒りを遅くする者は勇士にまさり
自分の心を治める者は城を攻め取る者にまさる
人はくじをひく
しかし事を定めるのは全く主のことである」
(箴言16章32-33節)
どんな人でも、自分の心をコントロールするのは非常に難しいことです
自分の面子が第一となれば
それはすなわち自分が第一であるということで
その思いが信仰をじゃましていくわけです
この内側から起こる思いを持ってくるサタンに対抗するため
その信仰が成長するように
教会に集い、みことばを教えられていくわけですが
さまざまな試練も信仰の成長のために必要な試験のようなもの
悩みがあるからこそ人は真剣に神を求め
逆に悩みがなくなればすぐにでも神を忘れてしまうものです
「悩みの日にわたしを呼べ
わたしはあなたを助け、あなたはわたしをあがめるであろう」
(詩篇50篇15節)
わたしたちが常に神と共に歩もうとしているかどうかは
悩みの日に神以外のものをあてにしていないかどうかでわかります
その時本当に頼りとしているのは神でしょうか
あるいは自分の力や財産でしょうか
また、自分の誇りを第一にしていないでしょうか
しかし、人間の力とは実に弱く、あてにならないものです
最後に残る本当の友はイエスさまだけ
わたしたちの人生の指導者は常にこの神ご自身のみです
もし指導者が別のものであったり
自分の心であったりするなら
世の光としての輝きも失われていくでしょう
「きょう生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ
神はこのように装って下さるのなら
あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか
ああ、信仰の薄い者たちよ」
(マタイによる福音書6章30節)
神によって救われ、神と共に歩む信仰生活を送っても
現実には楽とは言い難い毎日かもしれませんが
そこには必ず神の装いがあり、平安があります
それは神以外に与えることはできないもので
わたしたちにとって大きな希望です
「このようにして、キリストの日に
わたしは自分の走ったことがむだでなく
労したこともむだではなかったと誇ることができる」
(ピリピ人への手紙2章16節)
神はあなたの最もいいところを光らせてくださる
それは自分も人も知らないかもしれないことで
その光のためにわたしたちは信仰するのです
神の装いのうちにあることを感謝し
派手さはなくても、黙々と信仰する日々でありますように
今日教えられることがすべてではなく
明日は明日で教えられます
こうしてずっと教えられながら信仰生活は続くもの
大切なのはその継続です
<目次