今週のみことば
2月14日
「おおよそ主にたより
主を頼みとする人はさいわいである
彼は水のほとりに植えた木のようで
その根を川にのばし
暑さにあっても恐れることはない
その葉は常に青く
ひでりの年にも憂えることなく
絶えず実を結ぶ」
(エレミヤ記17章7-8節)
生命の水(神)があるところに居れば
たとえ暑さ(試練)が来ても
わたしたちは枯れることはありません
それは、根(信仰)が生命の水を吸うからです
根は目に見えるものではなく
その人がどんな信仰を持っているかも人の目には判りませんし
派手さも、特に面白みもないことから
根(信仰)はなかなか重要視されないものです
しかし、この世にあって
さまざまな戦いに直面する時
それが単に人間同士の戦いならば大きな問題ではありませんが
そこに人間の思いを越えた悪の霊が介入するならば
もはや人間の手に負えるものではありません
悪の霊は人の心に働きかけて悪意を起こさせ
人と人との間に争いを起こします
このような戦いに勝利するためには
神の力と、それを得るための信仰が必要です
「木には望みがある
たとい切られてもまた芽をだし
その若枝は絶えることがない
たといその根が地の中に老い
その幹が土の中に枯れても
なお水の潤いにあえば芽をふき
若木のように枝を出す」
(ヨブ記14章7-9節)
絶望的な状況に置かれても
水の潤いにあればまた芽を出す木のように
わたしたちにも常に生命の水を求め
そこに望みを置いて試練を乗り越えていきましょう
神の側から見た時には
お金があっても、地位や名誉があっても
人はみな迷える”放浪者”です
ところが、そのように人間の本質をつかれた場合
わたしはそんな者ではないと怒る人もあります
プライドが高く、自分を過信していると
こういうことがなかなか受け入れられず
聖書のみことばも心に響きませんから
そこを正しく聞き、教えられる人になるために
日々の信仰生活は重要です
「あなたはその枝に対して誇ってはならない
たとえ誇るとしても
あなたが根を支えているのではなく
根があなたを支えているのである」
(ローマ人への手紙11章17-18節)
ここでは、神の選民ではないわたしたち異邦人は
野生のオリーブの枝に例えられ
野生の枝が神の幹に接木される(救われる)ことで
元あった枝(選民)と同じ恵みにあずかる者となることが記されています
ただし
そうなったからといって
他の枝を侮ったり
自分を決して誇ってはなりません
なぜなら
自分という枝が立派だから、この木を支えているのではなく
どの枝もみな根(神)によって支えられているからです
そして
この根(神)は人に正しい人生観(良識)を与え
正しい道を歩むようにと導きます
ですから
信仰生活にあっては
「高ぶった思いをいだかないで、むしろ恐れなさい」(20節後半)
とあるように
第一に神をおそれ、敬い、信じる姿勢を大切にしながら
いたずらに周りと比べて優越感や劣等感に振り回されたり
目先のことで闇雲におそれたりと
心に悪の霊が入り込む隙を与えないように
冷静に祈っていきましょう
「最後に言う
主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい
悪魔の策略に対抗して立ちうるために
神の武具で身を固めなさい
わたしたちの戦いは血肉に対するものではなく
もろもろの支配と、権威と、やみの主権者
また天上にいる悪の霊に対する戦いである
それだから、悪しき日にあたって
よく抵抗し、完全に勝ち抜いて、堅く立ちうるために
神の武具を身につけなさい」
(エペソ人への手紙6章10-13節)
一本のわらは弱くても
それが束にされ、太い綱になると
少々のことでは切れないほど強い力を持つようになります
このように
ひとりひとりの祈りの時間はわずかでも
日々の試練の中で神に心が向き
祈り求めていくことの積み重ねが
やがて信仰を大きく育てていきます
そして
その信仰が”神の武具”となって
さまざまな戦いからわたしたちを救うのです
信仰を離れていく人には2種類あって
ひとつは「大成功した人」
もうひとつは「試練ばかりで疲れた人」です
前者は、世に言うところの”勝ち組”であり
自分を誇り、傲慢になって神を忘れていく人です
一方
後者はしばしば悪の霊による惑わしの中にあり
何が幸いなのかが良くわかっていないかもしれません
本当はすぐ側に神の助けがありながら
自ら間違った選択をし
神から出たのではない間違った価値観へとひきずられて
深みにはまっている人もあります
最初のエレミヤ記のみことばには
「おおよそ主にたより
主を頼みとする人はさいわいである
とありました
基本はいつもここです
どんなところにあっても、神を寄りどころとして信頼し
正しい道に導かれ
平安な日々を過ごしていくことができますように
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