今週のみことば


3月28日

「肉親の父は、しばらくの間、自分の考えに従って訓練を与えるが
たましいの父は、わたしたちの益のため
そのきよきにあずからせるために、そうされるのである
すべての訓練は、当座は、喜ばしいものとは思われず
むしろ悲しいものと思われる
しかし後になれば、それによって鍛えられる者に
平安な義の実を結ばせるようになる」
(ヘブル人への手紙12章10-11節))


「神の御旨を行って約束のものを受けるため
あなたがたに必要なのは忍耐である」
(ヘブル人への10章36節)


”訓練”とか”忍耐”というものは決して楽しいものではなく
できればそのようなものはないままに
気楽な人生を遅れたらどんなにかいいだろうと思います
しかし
親が子どもを教育するように
神さまはわたしたちを平安な義の実を結ぶ者となるよう
つまりはわたしたちが真に幸せになるために
ひとりひとりに必要な教育を与えます

その訓練の機会は、どんな人にもおとずれるもので
傍から見ればうらやましいように思う人にも
みな同様に忍耐の道を通りながら
”人生の馳せ場”を走っていくのです

このような訓練を受け、その意味を理解していない人は
神から来るものはすべて良い物のはずだと思っているため
試練がなかなか受け入れられません
信仰者として神に寄り頼んでいこうとしても
もし試練を受け付けないままであるなら
信仰に立っていくことも難しいでしょう
そして
この試練を受け入れるという境界線を越えなければ
平安な義の実を受けることもできないのです

ある子どもが、父親と一緒に憧れの富士山に登った時
ようやく上りきったところで父親にたずねました
『富士山はどこにあるの?』
今自分が立っている場所が憧れの富士山であるにもかかわらず
本人にはその実感がないというこのエピソードは
人生においても
人はそれぞれ皆自分が今どこにいるのか
それがどんなに幸いなところなのかも含めて
よくわかっていない(見えていない)ということに似ています

人生における試練は
わたしたちがなかなか気づかない真の幸いに対して
目が開かれる機会でもあります
試練がただ辛いだけのものではなく
鍛錬された者として成長していくために
神の力を得てそこを通り過ぎていくことが必要なのです
さらに
試練を受け入れようとする時には
自分第一主義でいるわけにはいかず
個人の狭い考え方ではなく
神という大きな立場から見た考え方をみことばを通して知り
最終的には
わたしたちはみな、神によって生かされ、恵まれているのだと
悟っていかなくてはならないわけです

また
この「大きな立場からものを見る」姿勢は
これから先の人生を「希望をもって見る」ことでもあります
信仰とは心の問題ですから
自分で勝手に結論付けてしまうことも多いのですが
ものごとをただ悲観的に見る前に
まず「希望をもって見る」ことが大切です

日々の訓練を通して
どんな時も神を忘れず
神の前に強く正しく成長していくことができますように
試練の中も
祈って進んでいきましょう



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