今週のみことば


4月11日

「しかし主はサムエルに言われた
『顔かたちや身のたけを見てはならない
わたしはすでにその人を捨てた
わたしが見るところは人とは異なる
人は外の顔かたちを見、主は心を見る』」
(サムエル記16章7節)


イスラエルの新しい王を任命すべく
神よりベツレヘム人エッサイのもとにつかわされたサムエルは
エッサイの子ども達と面会します
容姿も体格も良い彼らはいかにも王にふさわしいように思えましたが
神は彼らを良しとされませんでした

「人は外の顔かたちを見、主は心を見る」
その言葉通り、見栄えのする息子達は誰も選ばれることはなく
最後に神から選ばれたのは
まだ少年のダビデでした

人間は通常外観で人をはかります
この「外観」とは、容姿や体格だけでなく
職業や家柄、学歴などもこれに含まれてくるわけですが
そういうものは、人間には通用しても
神は常に心を見られる方なので
外観でごまかすこともできなければ
反対に外観で見下されることもないのです

わたしたちが日ごろ何を思いわずらっているかといえば
かなりの割合でこの外観が原因となっているかもしれません
これを「世の思いわずらい」とも呼び
これにはまっていくことで
自ら問題を作っているケースも少なくないのです

心を見てくださる神を信じ、そこに希望をおいて生きることは
こういった世の思いわずらいに左右されない人生を模索することにつながり
実際にそういう道を歩むことで
本当に大切なもの(真理)をつかんで、平安に生きることができる
それが聖書に記された約束です

「人が自分で神々を造ることができましょうか
そういうものは神ではありません」
(エレミヤ記16章20節)


人間が造る神、すなわち偶像とは
ただ単に人形のようなものをさすだけではなく
自分の心のうちにある思いや考えも偶像になることがあります
外観にとらわれた生き方もちょうどこれにあたり
これを信じて生きているうちは幸せになれないのです

人にはそれぞれ思いや希望はあるでしょう
しかし、成るのは神の御旨のみ
そして、それに従っていくことで
本当の幸福感を得ることができるわけです

「『その神を神でないものに取り替えた国があろうか
ところが、わたしの民はその栄光を、益なきものと取り替えた
天よ、このことを知って驚け、おののけ、いたく恐れよ』
と、主は言われる
『それは、わたしの民が二つの悪しき事を行ったからである
すなわち生ける水の源であるわたしを捨てて
自分で水ためを掘った
それはこわれた水ためで
水を入れておくことのできないものだ』」
(エレミヤ記2章11-13節)


かつてイスラエルの民は
しばしば神ではない神をつくりあげ
真の神をないがしろにし
自ら祝福を失う道を進んでいました

生きるために必要な水を保っておくことのできない「壊れた水ため」を掘ることは
人を救うことも正しく導くこともできない偽物の神を
自ら造るのと同じです

何の力もないものを頼っていくことの虚しさを知り
これが神か、あれが神かと
滅び行くものに仕えることがありませんように
流行の思想に流されない確固とした信仰を持って歩んでいきましょう

今やっていることが本当に益になることなのか
それは何かに惑わされてやっているのかもしれないと
自分の人生を振り返りながら
正しい道へと導かれていきますように

「またイスラエルの望みである主よ
あなたを捨てる者はみな恥をかき
あなたを離れる者は土に名をしるされます
それは生ける水の源である主を捨てたからです」
(エレミヤ記17章13節)


「神を知らなかった当時
あなたがたは、本来神ならぬ神々の奴隷になっていた
しかし、今では神を知っているのに
否、むしろ神に知られているのに
どうして、あの無力で貧弱なもろもろの霊力に逆戻りして
またもや新たにその奴隷になろうとするのか」
(ガラテヤ人への手紙4章8-9節)


「自由を得させるために
キリストはわたしたちを開放してくださったのである
だから、堅くたって
二度と奴隷のくびきにつながれてはならない」
(ガラテヤ人への手紙5章1節)


「むなしい偶像に心を寄せる者は
そのまことの忠節を捨てる」
(ヨナ書2章8節)





<目次