今週のみことば


6月6日

「しかし、わたしにとって益であったこれらのものを
キリストのゆえに損と思うようになった
わたしは、更に進んで
わたしのキリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに
いっさいのものを損と思っている
キリストのゆえにわたしはすべてを失ったが
それらのものを、ふん土のように思っている
それはわたしがキリストを得るためであり
律法による自分の義ではなく
キリストを信じる信仰による義
すなわち、信仰に基づく神からの義を受けて
キリストのうちに自分を見いだすようになるためである
すなわち、キリストとその復活の力とを知り
その苦難にあずかって、その死のさまとひとしくなり
なんとかして死人のうちからの復活に達したいのである
わたしがすでにそれを得たとか
すでに完全な者になっているとかいうのではなく
ただ捕らえようとして追い求めているのである
そうするのは、キリスト・イエスによって捕らえられているからである」
(ピリピ人への手紙3章7-11節)


この書簡を記したパウロは
人間的な立場から言えば、生まれ(家柄)も育ち(環境や教育)も一流で
自ら『律法の義においては落ち度のない者』といえるほど
信仰熱心な人でした
そして、彼にとってはそういうものはすべて自分の誇りであったわけですが
ある時一瞬にしてイエスに捕らえられ
その価値の素晴らしさに気づいてからは
今まで自分が持っていた誇りが
全部くだらないものであったことに気づかされたのです

律法派の学者達と共にイエスを熱心に迫害してきたパウロにとって
突如その生き方(価値観)が変ったことで
家柄や地位や名誉や財産等すべて失うことは
すなわち苦難の道の始まりでした
しかし
自分がどれほど律法を守るかで自分の正しさ(義)を証明するのではなく
ただイエスを心から信じる信仰によって与えられる義を頼りとして
彼はその苦難の中から復活することを目標に歩みだします

その姿はちょうど
以前は世の中の価値観(お金や名誉を重要視する)で生きてきた人が
一転して、神に希望を置いて生きていくのと同じです
世の中の「勝ち組思想」の中でもがいている間は
その心はだんだんすさみ、死に向かって進んでいくのですが
そこから救われて、神に目が向けば
死んだようになっている人々も復活することができるのです

パウロは自らも言っているとおり
当時信仰者としてすでに完成されていたのではなく
常に苦難の中で負けそうになる自分を何とかして奮い立たせ
ただ一念に神を求めて祈り進んでいきました
それは、彼がイエスから捕らえられ(選ばれ)、救われていたからできたことであり
そのような生き方を選ぶことで
彼自身いよいよこの生き方が正しいのだと実感していったのです

上記みことばの「信仰に基づく神からの義」とは
洗礼と聖霊を受けて救われることで
そこからクリスチャンとしての歩みが始まります
ですから、救われた者がすなわち完全な者なのではなく
信仰者として神を追い求めていく生活がスタートするわけです
そして、信仰生活を送るうちには
その人の持つ信仰そのものも成長し
信仰が大きくなるほど、大きな問題もクリアできるのです

例えば、小さなご飯粒一粒が手に付いたといって
わたしたち人間には何ら問題ではありませんが
これが小さなアリについたなら
アリはそのために大きな苦労をするでしょう
つまり、自らの大きさによって、背負う物の負担感は異なり
信仰も成長するほど
色々な重荷を苦に思わなくなっていくのです

しかし、反対に
信仰歴の長さによらず
いつまでも信仰そのものに成長がなければ
同じ苦労の中で堂々巡りの人生となってしまいます

「教訓をかたくとらえて、離してはならない
それを守れ、それはあなたの命である
よこしまな者の道に、入ってはならない
悪しき者の道を歩んではならない
それを避けよ、通ってはならない
それを離れて進め」
(箴言4章13-15節)


申命記11章には
神はわたしたちに前にわざわざ「恵み」と「呪い」を置くと記されています
その中でわたしたちは「恵み」を選ばなければなりませんが
「呪い」の道ほど、人の心を捕らえやすく
いかにも幸いな道のような誘惑があるものです
目の前にお金儲けの話が転がってきた時
それを冷静に退けることは容易ではありません
また、自分が誉められたり成功したりする可能性がある道は
どう見ても幸いな道と思えてしまいます

このように、わざわざ目の前に試みが置かれる時
正しい判断をするために必要なのは信仰です
神の価値観と世の中の価値観の違いをしっかり把握し
普段から冷静に受け止める訓練をしている人や
自分が過去に失敗したことを教訓にしている人は
神の教えを守る信仰によって自ら正しい道を判断し
自分で判断ができない人は
教会に相談を持ちかけ、その判断をゆだねます
その時、信仰をもって歩める人はその指示に従いますが
どうしても自分の我や欲を通したい人は、自らの思いで歩んでいきます

聖書には、人を活かす大切な命があって
その教えに従う人は、命を得ていきます
せっかく生きているのに、死人のような人生を送るのはもったいないこと
神にあって幸いな人生であるために
自分の信仰を見直していきましょう

同じ試練に遭遇した場合
信仰に立って、何が起きても前へ進もうとする人もあれば
信仰していてもこれじゃあつまらないと、神さまに文句を言う人もあります
前者はこの信仰によっていよいよ神の証を得て、平安に歩みますが
後者は、同じ課題を乗り越えられないままです

聖書のみことばは、耳に痛いことも少なくありませんが
人の都合よくみことばを解釈してしまった時点で
それはすでに神の言葉ではなくなってしまいます
どうぞ耳にいたい言葉も素直に受け止め
自分が成長するためになにがどう変わっていかなくてはならないのか
ひとりひとりが冷静に考えていきたいものです



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