今週のみことば


6月13日

「さてイエスはそこから進んで行かれ
マタイという人が収税所にすわっているのを見て
『わたしに従ってきなさい』と言われた
すると彼は立ち上がって、イエスに従った」
(マタイによる福音書9章9節)


この書簡を記したマタイは元は収税人でしたが
イエスの『わたしに従ってきなさい』との一言に従い、弟子となりました
マタイにとっては、従うことはすなわち収税人としての職を失うことです
それでも彼は従いました
将来の恐れとか、心配とかがなかったのかどうか
それは聖書には記されていません
しかし、「従う」とは、常にYESはNOかどちらかひとつのみ
彼がYESを選択したことは間違いないことです

聖書には、「従う」ことが多く教えられています
「手を伸べよ」との言葉に従って、伸びない手を伸ばそうとした人
「立て」との言葉に従って、立てない足で立とうとした人
「起きよ」との言葉に従って、寝たきりの体を起こそうとした人
彼らは皆、イエスの言葉に「従う」ことで癒されたのでした

日々の歩みの中で
わたしたちは何かと自分の行く先を迷うものです
そこで自分の頭で色々考えても、物事は都合よくは進みません
ですから、色んな心の思いを捨てて
聖書に教える神のみことばに従い
今ある自分の生活を見直しながら
行き詰った状況にも自暴自棄になることなく
自分の弱さを素直に認めて、そこから立ち上がっていく
そういった信仰生活の基本姿勢を
実生活の悩みを通して繰り返し教えられることで
わたしたちは神の前にだんだん成長していくわけです

ひとりひとりに与えられた問題は神のご計画のうちにあり
それぞれが成長するために必要なものですから
誰も逃げては通れないものです
よくあるのが
牧師の前に祈りの問題だけ持ってきて
あとは丸投げでおしまいというパターンですが
これでは心の(信仰の)成長は見込めません

数学の問題集を解く時には
まず基本問題からクリアしてその後応用問題に移ります
ところが、基本をしっかり理解できていないと応用がきかない
信仰生活もこれと同じです
自分の何が間違っていて
どこがどう変わっていかなくてはならないのか
日常の小さな問題から自分の弱さを教えられ
その弱さを、みことばに従って克服しようとする姿勢が常に求められているわけです

ところが、人は心を持ち、それは人によって異なるため
同じ神の教えに対しても、それぞれ見方や受け止め方は違います
ですから、正しい見方をしなければ、当然、従い方も違ってきて
人生の歩み方もそれぞれわかれて行くのでした

創世記11章にはバベルの塔の話が載っています
9章の1節には、神はノアとその子らに対して
「生めよ、ふえよ、地に満ちよ」と命じたにもかかわらず
その後生まれた子孫たちは
神の命令に背く行動をはじめたのです
それは天までとどく塔の建設でした
「さあ、町と塔とを建てて、その頂を天に届かせよう
そしてわれわれは名を上げて、全地のおもてに散るのを免れよう」(4節)

神の御旨は人類が地上に満ちることでしたが
彼らはそうなることを免れようとしたのです
しかし、彼らの計画は
神が言葉を乱されることで失敗に終わりました

同じ間違った考えを持った人が集まると
間違った行動に走ります
同じ神を信じているはずなのに
神に対する見方や、みことばの受け止め方が違えば
結局自分の思いに従って
神の御旨とは違う方向へ進んでしまうのです

時代は変わり、世の中の生活様式も常に移り変わっていきますが
真理(神)の言葉は常に変りません
それぞれ自分の思いや都合もあるでしょう
しかし、本当に幸いな人生を送るために必要なのは
神の道を歩むべくその言葉に従っていくことです

イエスの弟子として十字架までもついていくと宣言しながら
いざイエスが捕らえられると、彼を否んだペテロのように
人の心は不安定です
いかにも信仰がありそうで、実はそうではない
その現実に愕然としたペテロは最後に泣きました
「泣く」とはすなわち「悔いる」こと
自分の弱さを認め、心から悔いたペテロは
そこから別人のように、本物の信仰を持った弟子へと成長していくのです

わたしたちの信仰生活も
単に表向きの熱心ではなく
目の前の問題にどう向き合うかで、その心が常に試されています
神の前に正しく歩む人になるために
マタイのように潔く従っていくことができますように
祈って前進していきましょう



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