今週のみことば
8月8日
「それで主はイスラエルに対し激しく怒って言われた
『この民はわたしがかつて先祖たちに命じた契約を犯し
わたしの命令に従わないゆえ
わたしもまたヨシュアが死んだときに残しておいた国民を
この後、彼らの前から追い払わないであろう
これはイスラエルが
先祖たちの守ったように主の道を守ってそれに歩むかどうかを
わたしが試みるためである』」
(士師記2章20-22節)
エジプトを出て、神の契約の地カナンへと導かれたイスラエルの民は
神の力を得てカナンの地に住む民との戦いに勝利していきました
ところが
モーセ亡き後、指導者となったヨシュアもやがて亡くなると
イスラエルの民は神を捨て、別の神々につかえるようになります
そのため、かれらは神によって敵の手に渡された後
今度は指導者として士師(さばきづかさ)が立てられ
イスラエルを助けるのでした
しかし、士師が死ぬと、民は再び神にそむきます
そこで神は
カナンの地に住む敵をことごとく滅ぼすことなく一部残すことで
イスラエの民人に試練を与えました
こうして、苦境に立たされたことで、かれらが悔い改め
心から神に従って歩もうとするかどうかが試されることとなったのです
「あなたの神、主がこの40年の間
荒野であなたを導かれたそのすべての道を覚えなければならない
それはあなたを苦しめて、あなたを試み、あなたの心のうちを知り
あなたがその命令を守るか、どうか知るためであった
それで主はあなたを苦しめ、あなたを飢えさせ
あなたも知らず、あなたの先祖たちも知らなかったマナをもって
あなたを養われた
人はパンだけで生きず
人は主の口から出るすべてのことばによって生きることを
あなたに知らせるためであった」
(申命記8章2-3節)
40年間荒野を旅するという試練は
イスラエルの民をその心の奥底まで試すものでした
その試練は厳しいものでしたが
結果的には、かれらは常に神によって守られ
飢えた時も渇いた時も、神は必ず必要なものを与えました
この旅を通して
人が生きていくのに必要なものは決してパンだけではなく
神の言葉による導き、助けが最も重要なのだと
かれらは教えられていったのです
「あなたは心のうちに
『自分の力と自分の手の働きで、わたしはこの富を得た』
と言ってはならない
あなたはあなたの神、主を覚えなければならない
主はあなたの先祖たちに誓われた契約を今日のように行うために
あなたに富を得る力を与えられるからである』」
(申命記8章17-18節)
イスラエルの民は、目先の問題が過ぎればすぐに神を忘れ
他の神を信じたり、自分を誇ったりするようになりました
せっかく神が幸いの元を与えてくださっていても
かれらの心はかたくなで
やがて感謝の心も忘れていくのです
それはイスラエルの民だけではない
すべての人に共通する問題なのでした
試練の道とは厳しい道ですから
なぜそのようなところを通されるのか人間には理解はできません
そもそも信仰とは
わたしが理解したから、納得したから従いましょうというものではなく
なぜこんなことが?と情けない思いであっても
それが神の導く道であるならば必ず幸いにつながるのだろうと
信じて従っていくものです
カナンの地に入っても敵が残されていたように
救われているわたしたちの心の中にも
なお敵となる存在が残され、戦いは続きます
その”敵”とは
神を信じつつも、”別のもの”(お金や名誉など)を信じる心もなお残っていて
それが信仰を邪魔してくるわけです
教会というところは、恵まれるところである一方で
その人の欠点や現実の姿も浮き彫りになるところです
それをどう見極め、どう受け入れるかが
常に信仰生活の課題です
神によってあなたの魂が生かされているなら
たとえ苦境に立たされても勝利を得るでしょう
しかし、神を忘れればその魂は朽ちて
不安と文句ばかりの日常となるでしょう
「あなたがたをキリストにある永遠の栄光に
招き入れて下さったあふるる恵みの神は
しばらくの苦しみの後、あなたがたをいやし、強め
力づけ、不動のものとしてくださるであろう」
(ペテロの第一の手紙5章10節)
さまざまな試練によって信仰の基礎は定められ
人は真に祝された者となることができるのです
単にお金持ちになることが祝されているのではありません
自分の欠点と正直に向き合い
人が見てどう思うかではなく
神の視点でどう思われるかを考えましょう
神の言葉に従うことで知恵を与えられ
神にある喜びと感謝を覚え
日々の生活を楽しんで進んでいきたいものです
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