今週のみことば


8月22日

「偽善な律法学者、パリサイ人たちよ
あなたがたは、わざわいである
杯と皿との外側はきよめるが、内側は貪欲と放縦とで満ちている
盲目なパリサイ人よ
まず、杯の内側をきよめるがよい
そうすれば、外側も清くなるであろう
偽善な律法学者、パリサイ人よ
あなたがたは、わざわいである
あなたがたは白く塗った墓に似ている
外側は美しく見えるが
内側は死人の骨や、あらゆる不潔なものでいっぱいである
このようにあなたがたも
外側は人に正しく見えるが
内側は偽善と不法とでいっぱいである」
(マタイによる福音書23章25-28節)


パリサイ人が、普段何にこだわって生きているかについては
マルコによる福音書に以下のように記されています

「もともと、パリサイ人をはじめユダヤ人はみな
昔の人の言い伝えをかたく守って
念入りに手を洗ってからでないと食事をしない
また市場から帰ったときには身を清めてからでないと食事をせず
なおそのほかにも、杯、鉢、銅器を洗うことなど
昔から受けついでかたく守っている事がたくさんあった」
(マルコによる福音書7章3-4節)


彼らは神のいましめをさておいて
上記のような人間の言い伝えを重視し
自分たちは立派に生きているのだと自負する一方で
そういう律法を守らないイエスの弟子たちを批判していました
パリサイ人にとって重要なのは見かけであり
常に人からどう見られているかが最大の関心事なのでした

そんなパリサイ人のことをイエスは「偽善な律法学者」と呼び
彼らは口先だけで神を敬い
神のいましめよりも人間の作ったいましめを守って
その心は神から遠ざかっていると指摘します

信仰というものは、本来神の側へと近づいていくものです
ところが、自分が人から格好良く見えることにこだわると
本当に大切なものが見えなくなってしまい
どうでもいいことに熱心になり
中味の伴わない格好だけのクリスチャンとなっていくのでした

わたしたちが真にクリスチャンとして正しく歩むために
その人生にはさまざまな試練が置かれ
そこから神がどう導かれるのかは
人間にとって未知数の世界です

フルコース料理においては
どんな料理がどんな順番で出てくるかだいたい決まっていますが
神の世界にはこういう人間の決めた「常識」が当てはまらないこともよくあります
人間はどうしてもフルコースのパターンに思考が慣れていて
それ以外は常識外として受け入れづらい
ですから
人生が思わぬ困った方向に展開され
あるいは余裕があると思っていたことも覆るなど
そこにいちいち「常識」をあてはめていると
こんなはずではなかったとか
もうどうにもならないとか
あらぬ不安や不信感ばかりが心を占領して
最後には神さまなどいないかのように絶望してしまうのです

人間が、お互い気持ちよく生きていくための「常識」は大切です
信仰熱心になるあまり
常識はずれで人に迷惑をかけることは正しい信仰ではありません
しかし、こうなったら次はこうなるという、人生の展開の常識にとらわれていると
真理(神)が見えなくなり
結果的には神の導きがわからず
神にゆだねて時を待つこともできないでしょう

こういう心のうちの本当の信仰を育てることが
ただ表向きだけ立派なクリスチャンを演じている人には難しく
それがパリサイ人を例にあげて
わたしたちに警告されているのでした

「神の時」は人生の流れを変えていきます
絶望して、今すぐ死にたいと思っている人でも
その命を神にゆだねて
一日待てば、一週間待てば、一ヶ月待てば
時の経過と共に心は変わっていきます
「常識」によれば死んで当然のような人でも
そこに心からの信仰と神の働きがあれば
必ず生かされていくのです

「おおよそ、この川の流れる所では、もろもろの動く生き物が皆生き
また、はなはだ多くの魚がいる
これはその水が入ると、海の水を清くするためである
この川の流れる所では、すべてのものが生きている」
(エゼキエル書47章9節)


川の水は、浅い間は人が思いのままに歩くことができても
深くなると、もう自分の力で歩くことはできず
この命の水の流れのままに、神の時を待ちながら
その導かれるところへと進んでいくことが
信仰生活の基本です

どんな時にも、一番強い味方となって下さる神を信じ
自分の中にある間違ったこだわりに支配されることなく
心の内側からきよめられ
さまざまな戦いに勝利していく人生でありますように

「神のなされることは皆その時にかなって美しい」
(伝道の書3章11節)




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