今週のみことば


9月12日

「わが神、わが神、なにゆえわたしを捨てられるのですか
何ゆえ遠く離れてわたしを助けず
わたしの嘆きの言葉を聞かれないのですか
わが神よ、わたしが昼呼ばわっても、あなたは答えられず
夜呼ばわっても平安を得ません
しかしイスラエルの賛美の上に座しておられるあなたは聖なるおかたです
われらの先祖たちはあなたに信頼しました
彼らが信頼したので、あなたは彼らを助けられました
彼らはあなたに呼ばわって救われ
あなたに信頼して恥を受けなかったのです」
(詩篇22篇1-5節)

常に戦いの中にあり、危険と隣り合わせであったダビデは
心の底から神により頼み
そのたびに窮地から救い出されてきました

ダビデにはお金も権力もありましたが
そういうものを頼りとはせず
「わたしを遠く離れないでください
悩みが近づき、助ける者がいないのです」(11節)
と、ただ神のみを信頼し、見上げていったのでした
上記のみことばからは
ダビデが自分の不安(弱さ)を神の前に隠すことなくあらわにし
わたしには神しかいないのだと
その純粋な思いが記されています

わたしたちの信仰生活にあっても
もし、神さま以外に助けてくれる(頼りになる)存在があるなら
人はその心に、神さまなどいなくても生きていけると思うものです
しかし、それは単なる錯覚であって
たとえばそれがお金であったり権力であるとしても
そういうものは一時的な助けにはなっても
根本的な解決(真の平安)には結びつかないのです
それはちょうど西洋医学の薬によって
一時的に熱や痛みが治まるに過ぎないのと似ています

このように
”信仰生活”といっても
その心にはなお、お金万能主義を持ち続け
神の助け=お金が与えられることだと信じているなら
聖書の教える本当の幸いはいつまでもわからないままです
それは、自分の主義とは合わないものを受け入れたくない
との姿勢から来ており
そうした神の受け入れ方の間違いによって
信仰生活も違った方向へと流れていってしまうのでした

「しかし、義の律法を追い求めていたイスラエルは
その律法に達しなかった
なぜであるか
信仰によらないで、行いによって得られるかのように
追い求めたからである
彼らは、つまづきの石につまづいたのである
『見よ、わたしはシオンに、つまづきの石、さまたげの岩を置く
それにより頼む者は、失望に終ることがない』
と書いてあるとおりである」
(ローマー人への手紙9章31-33節)

イスラエルは、イエスが神であることと、その救いを受け入れようとせず
あくまで律法(行い)で救われようとして
結局そこに至りませんでした
イエスご自身が律法の終わりとなって、救いを与えてくださったにも関わらず
自分たちの主義に固執したがために
真実を受け入れられなかったのです

神が人に求められたものは表向きの律法の行いではなく
ただ心から神を信じ寄りすがる信仰でした
要するに、今まで信じていたもの(お金や権力など)から心を転じて
神を愛し信頼するかどうか、その心を見られているのです

自分の信じてきた主義を変えるのはなかなか難しく
イスラエルにとっては
神であるイエスご自身が「つまづきの石」となって
多くのイスラエル人がその石につまづいていったのでした

しかし
本当はその石につまづかない人、石を受け入れた人は
最後は失望に終ることはないと約束されています
そこには受け入れがたいもの乗り越えていく努力が必要で
今日のわたしたちの信仰生活にあっても
それぞれが乗り越えていく課題があることでしょう

祈らなくても、お金や人が助けてくれるなら
その信仰は口先だけのものになります
ダビデはお金も頼りになる兵力ももっていましたが
その心は常に神によりすがっていましたから
彼の戦いは常に勝利に終ったのです

表向きの、口先だけの信仰ではなく
本当に平安の与えられる心からの信仰へと育っていくように
その心を開いて
みことばを素直に受け入れていくことができますように




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