今週のみことば
9月26日
「するとユダヤ人たちがイエスを取り囲んで言った
『いつまでわたしたちを不安のままにしておくのか
あなたがキリストであるなら、そうとはっきり言っていただきたい』
イエスは彼らに答えられた
『わたしは話したのだが、あなたがたは信じようとしない
わたしの父の名によってしているすべてのわざが
わたしのことをあかししている
あなたがたが信じないのは、わたしの羊でないからである
わたしの羊はわたしの声に聞き従う
わたしはかれらを知っており、彼らはわたしについて来る
わたしは彼らに永遠の命を与える
だから彼らはいつまでも滅びることがなく
また、彼らをわたしの手から奪い去る者はない
わたしの父がわたしに下さったものは、すべてにまさるものである
そしてだれも父のみ手から、それを奪い取ることはできない
わたしと父とは一つである』」
(ヨハネによる福音書10章24-30節)
エルサレムで宮きよめの祭が行われた時
宮の中を歩いているイエスにユダヤ人たちが詰め寄りました
『あなたがキリストであるなら、そうとはっきり言っていただきたい』
ところが、その答えはすでにイエスご自身の口から何度も語られていて
それを直接聞いていても
彼らの心の中に信じる気持ちがなかったので
その事実を受け入れることができないのでした
今わたしたちもイエスのお姿を直接見ることができれば
自分の信仰がきっと強まるだろうと思いがちですが
実際には、たとえ目の前でその姿を見、その言葉を聞いたとしても
その体験がそのまま信仰になるわけではなく
「あなたがたが信じないのは、わたしの羊でないからである」
とあるように
まずは「羊」となること、つまり救いを受けてイエスのものになり
イエスに聞きしたがって生きる者となることが重要です
そして
「わたしと父とは一つである」
と語られたように
イエス=創造主である唯一の神と認識し、信じて
永遠の命を与えられていることに感謝していきましょう
「すると、彼らはイエスに言った
『あなたの父はどこにいるのか』
イエスは答えられた
『あなたがたは、わたしをもわたしの父をも知っていない
もし、あなたがたがわたしを知っていたなら
わたしの父をも知っていたであろう』」
(ヨハネによる福音書8章19節)
「ピリポはイエスに言った
『主よ、わたしたちに父を示してください
そうして下されば、わたしたちは満足します』
イエスは彼に言われた
『ピリポよ、こんなに長くあなたがたと一緒にいるのに
わたしがわかっていないのか
わたしを見た者は、父を見たのである
どうして、わたしたちに父を示して欲しいというのか』」
(ヨハネによる福音書14章8-9節)
このように、イエス=創造主である唯一の神との根拠は
みことばの中に何箇所も記されていますが
それをどうしても信じられない人は
別の説を立てようとします
こうしてさまざまな議論が起こってくるわけですが
大切なのはこうしたことを研究することではなく
聖書にしるされた救いを受け入れ
信仰を実感として受け止めることです
実際に神の価値観を中心に生活しようとする時
そこに平安があり、助けを感じることができるなら
それを証として
大切に心にとめて育てていけば
やがて確信もって進むことができるようになります
あの疑問がこの疑問が解決したら信仰できるのにと
いつまでも理屈ばかりに引っかかっていると
本当の平安は得られませんから
それが信仰に結びついても行かないわけです
実際にイエスの姿を見ても
信じる心がなければ信じられない
本当の信仰に至るのは
まさに狭き門をくぐるようなものです
「あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが
この聖書は、わたしについてあかしをするものである
しかもあなたがたは命を得るためにわたしのもとに来ようともしない」
(ヨハネによる福音書5章39-40節)
「そこでピリポが駆けて行くと
預言者イザヤの書を読んでいるその人の声が聞こえたので
『あなたは読んでいることがおわかりですか』と尋ねた
彼は『だれかが、手引きをしてくれなければどうしてわかりましょう』
と答えた」
(使徒行伝8章30-31節)
自分なりに一生懸命聖書を読み、研究しながらも
そこに記された真意を読み取ることも、信じることもできず
結局いつまでも神に近づこうとしないままの人
また
自分で聖書を読んでも
結局は手引きしてくれる人が必要だと悟り
素直に教えを乞い、その教えに従って救われる人
同じ聖書を読んでいても
その歩みや行く末は全く異なります
「キリストは、わたしたちのために呪いとなって
わたしたちを律法の呪いからあがない出してくださった
聖書に”木にかけられた者はすべて呪われる”と書いてある
それは、アブラハムの受けた祝福が
イエス・キリストにあって異邦人に及ぶためであり
約束された御霊を
わたしたちが信仰によって受けるためである」
(ガラテヤ人への手紙3章13-14節)
神が、人の肉体をもってこの世に生れてくださったイエスは
わざわざ呪われた者となって十字架にかかり
全人類が救われる門戸を開かれたのでした
その十字架上で流した御血にあずかる洗礼を受けることにより
アブラハムつまり選民に与えられる祝福が
わたしたち異邦人にまで及び
また、神ご自身の聖霊を受ける幸いをも得たのです
しかし、これほどの恵みが与えられていても
信じなければ得ることはできません
「キリストに合うバプテスマを受けたあなたがたは
皆キリストを着たのである
もはや、ユダヤ人もギリシャ人もなく
奴隷も自由人もなく、男も女もない
あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つだからである
もしキリストのものであるならば
あなたがたはアブラハムの子孫であり
約束による相続人なのである」
(ガラテヤ人への手紙3章27-29節)
せっかく神から与えられた恵みです
十分味わい感謝して
幸いな信仰生活を送っていきたいものです
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