今週のみことば
10月30日
「初めに言があった
言は神と共にあった
言は神であった
この言は初めに神と共にあった
すべてのものは、これによってできた
できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった
この言に命があった
そしてこの命は人の光であった
光はやみの中に輝いている
そして、やみはこれに勝たなかった」
(ヨハネによる福音書1章1-5節)
「光あれ」との神の言葉から始まった天地創造は
すべてが言葉つまり神ご自身によって成し遂げられました
このように
言葉は神そのものであり
そこには命があり、人を照らす光がありますが
暗闇の中で輝く光を誰もが受け入れたわけではありません
「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛してくださった
それは御子を信じる者がひとりも滅びないで
永遠の命を得るためである
神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく
御子によって、この世が救われるためである
彼を信じる者は、さばかれない
信じない者は、すでにさばかれている
神のひとり子の名を信じることをしないからである
そのさばきというのは
光がこの世に来たのに
人々はそのおこないが悪いために、光よりもやみの方を愛したことである
悪を行っている者はみな光を憎む
そして、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光に来ようとはしない
しかし、真理を行っている者は光に来る
その人のおこないの、神にあってなされたということが
明らかにされるためである」
(ヨハネによる福音書3章16-21節)
神ご自身が肉体をもち
神の御子イエスとしてこの世に来られたのは
すべての人がイエスを信じ、その救いを受けて幸いになるためでした
それは決してこの世を裁くためではなく
救われるためであるにも関わらず
神=光=イエスが来られたというのに
光よりも暗闇を愛する人は
信じることも救いを受け入れることもしないのです
彼らはその行ないが悪いので
そういう事実が明るみに出るのを恐れて
光の方へこようとはしません
”信じない者は、すでにさばかれている”
と記されたように、すでに彼らは裁かれた状態になっているのです
一方で
光の方へ進む人には裁きはなく
そこにあるのは神の救いです
「イエスはまた人々に語ってこういわれた
『わたしは世の光である
わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく
命の光をもつであろう』」
(ヨハネによる福音書8章12節)
光が照らす道には、悪いものはありません
さまざまな欲で心揺らぐことはあっても
神にあると自制心が働くので
そのままダメになってしまうことがないのです
そして
この光に向かう救いの道は全人類に開かれ
洗礼と聖霊によるバプテスマを受けた者は
国籍も境遇も地位も性別も関係なく
みな等しくキリストを着た者として
祝福の約束を相続する立場になれるのでした
「キリストに合うバプテスマを受けたあなたがたは
皆キリストを着たのである
もはや、ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない
あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つだからである
もしキリストのものであるなら、あなたがたはアブラハムの子孫であり
約束による相続人なのである」
(ガラテヤ人への手紙3章26-29節)
ただし、人間は救われても
善のみで生きているわけではありません
日々うそもつけば、怠惰にもなり
つい自分本位に流れてしまうこともあるものです
しかし、神は人間が本来どういうものかよくご存知なので
こういうことをいちいち細かく責めるのではなく
ただ、”神を信じ、おそれ、敬い、従うこと”が繰り返し求められています
もしその心に神を信じる思いがあるなら
光は闇に打ち勝つのですから
悪い行動へ向かうこともとどめられるでしょう
信仰的に何がどう成長したのかは
表面的にはよくわかりませんが
いざという時に信仰に立てるのは(闇ではなく光へ向かうのは)
そこに”神を信じ、おそれ、敬い、従う”信仰生活の積み重ねがあるからです
神を信じていれば、自ずと悪いことはできません
大切なのは
何か熱烈に信仰しているらしい派手な行動ではなく
あくまでも心がどういう状態にあるかということです
わたしたちには色んな試練がありますが
その時、心が何に向くのかがいつも試されているようなものでしょう
周りにはいつも色んな人々が置かれ
その姿を通して教えられることも多いものです
人間は自分の姿はよくわからなくても
他人の粗はよく目に付きますから
それによって己を省みることは大切です
「わたしはかわいた地に水を注ぎ
干からびた地に流れをそそぎ
わが霊をあなたの子らにそそぎ
わが恵みをあなたの子孫に与えるからである」
(イザヤ書44章3節)
試練の中で、ただ辛い思いばかりに心がふさがれてしまうのではなく
神に希望を置き
その干からびて枯れそうな心に水を注いでいただきましょう
またすでに乾ききって枯れたようになっていても
命は神の手にあります
ヨハネによる福音書11章において
死んで葬られ4日も経ったラザロをもよみがえらせたイエスの言葉を
はじめ人々はなかなか信じることはできませんでした
「この病気は死ぬほどのものではない
それは神の栄光のため
また神の子がそれによって栄光を受けるためのものである」(4節)
「わたしたちの友ラザロが眠っている
わたしは彼を起こしに行く」(11節)
「あなたの兄弟はよみがえるであろう」(23節)
「わたしはよみがえりであり、命である
わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる」(25節)
次々語られる希望の言葉も
常識という「石」で耳がふさがれている人々にはなかなか届きません
せっかくこれから良くなると知らされていることでも
自分で勝手に悪く受け止めてしまう
信仰生活の歩みにおいても
そこに困ったことが起こると
祈っているのに・・・と、神に対して不信感を持つのは
そこにどんな神のご計画があるかわからないからです
「石を取りのけなさい」(39節)
イエスの言葉に従って墓石が取りのけられ
ラザロはよみがえりました
ところがその後
この奇跡を知って
イエスがどういう方であるかその本質を知ろうとするよりも
生き返ったラザロを見たいと思う人々が多く押し寄せてきました
人間の興味はすぐに奇跡にのみ向けられがちで
奇跡のために信仰しようとする人もありますが
結局そういう人は神を見ていないのです
信仰者は、神に来るもの=光に来る者で
闇の中を歩むことがない
そのみことばがわたしたちの中で成就するように
真の光を求めて進んでいきましょう
<目次