今週のみことば


1月9日


「パロはこの事を聞いて、モーセを殺そうとした
しかしモーセはパロの前をのがれて、ミデアンの地に行き
井戸のかたわらに座していた」
(出エジプト記2章15節)


ヘブル人の長男として生まれ、本来ならば殺される運命であったモーセは
エジプト王の娘によって助けられた後
エジプトのあらゆる学問を授けられ、皇太子として育てられます
そのまま何もなければエジプトの王となるはずでしたが
ある日、同胞のヘブル人がエジプト人に打たれているのを見て
これを助けるためにエジプト人を殺してしまいました

翌日、この事実がすでに周りに知られていると悟ったモーセは
急いでミデアンの地に逃げていきます
そこで井戸のそばに座っていると
祭司の娘たちが水をくみに来ましたが
羊飼いたちが来て彼女たちを追い払おうとしたので
モーセは彼女らを助けました
こうしてモーセはミデアンの地で羊飼いとして生活するようになるのでした

自分の皇太子としての地位も将来もすべて捨て
パロ王の前から逃げ延びたモーセがたどり着いたのは井戸の傍
井戸は水のわくところであり、水は命の源です

「おおよそ主にたより、主を頼みとする人はさいわいである
彼は水のほとりに植えた木のようで
その根を川にのばし、暑さにあっても恐れることはない
その葉は常に青く
ひでりの年にも憂えることなく、絶えず実を結ぶ」
(エレミヤ書17章7-8節)


人生の戦いに行き詰まり
問題から逃げ延びようとして神を頼り求めていく時
わたしたちには生きるために必要な糧も力も与えられ
その信仰をもって生きるならば
再び試練にあっても恐れることなく進んでいくことができます

変わりばえのない日常にあっては
一体自分の人生の節目がどこにあるのか
どこで芽が出るのかは人にはわからないものですが
神と共に歩む人生では
必ず知らず知らずのうちに幸いな道へと導かれていくのです

世の中は常にお金が一番大切で
確かにお金はあった方がいいのですが
それで人生が決まるわけではありません
自分の願いはああなってこうなってと
何か華やかなことばかり思い描いているなら
いつまでも神さまちっとも祈りを聞いてくださらないと
いらいらするでしょう

しかし、わたしたちの人生はみな、神のご計画のうちにあります
では、その中でどう祈るべきなのかが
ゲッセマネでのイエスの祈りに表されています

「アバ、父よ、あなたには、できないことはありません
どうか、この杯をわたしから取りのけてください
しかし、わたしの思いではなく
みこころのままになさってください」
(マルコによる福音書14章36節)


ここは”神イエス”ではなく
肉体を持つ”人間イエス”としての正直な願いが記されています
”この杯”、つまり十字架にかかることは大変な苦痛ですから
できることなら取り去ってほしいと願う気持ちは
わたしたちが各々の試練から逃げ出したい気持ちと同じです

イエスは神ご自身ですから
力がないために捕らえられて十字架にかけられたのではありません
十字架上で血を流すことによって万民を救うためでした
こうして神ご自身が肉体をもって苦しいところを通り
人間の弱さも同じように経験し
わたしたちがどうあるべきか見本を残してくださっているのです

試練の中で
「祈っても何もならない」と絶望感を抱く時
わたしたちはどうすればいいのでしょうか
この場合
「祈りが足らない」と言う人があります
確かに、最初から祈りもしない人は祈りが足らないでしょう
そもそも神を信じていない人は祈ることができません
しかし、本当に祈っている(心から神に信頼している)人は
祈りが足らないわけではなく
まだその時がきていないか
あるいは、その内容が神の御旨と異なっているからかもしれません

何にしても、神には問題解決の力がないわけではなく
今起こっていることはすべて神の許しのなかにあるということ
ですから
祈っても何も変わらなければ、そのままゆだねていくことです
これがイエスが自ら模範を示された
「しかし、わたしの思いではなく
みこころのままになさってください」

との祈りです

自分に与えられた人生を
神におゆだねして生きていく
そうする時、必ず神は幸いな道を開いてくださいます

あせることなく
日々、神の助けを感謝しつつ歩んでいきましょう



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