今週のみことば


1月16日


「なぜなら、すでにすえられている土台以外のものをすえることは
だれにもできない
そして、この土台はイエス・キリストである」
(コリント人への第一の手紙3章11節)


洗礼と聖霊を受けることで救われたわたしたちは
すでに人生の土台をイエスの上にすえられた者です
そして、その上に各々が信仰の家を建築していくわけですが
どのような建築物を造るかは各々の自由に任せられています

ただ、そこで確かに言えることは
どのような人生を歩むとしても
土台を別のものにすりかえては
その人生に幸いな建築はなされないということ

つまりは
土台をイエスを信じる信仰から、お金を信じる生き方にすりかえる時
それは一見素晴らしい土台になるように思えても
実際には人生を支える土台とはなり得ないということです

目先の問題だけならば
ある程度のお金があれば色々解決もするでしょう
そういう意味では、お金も人生の一部の土台になるのかもしれませんが
それが人生全般に及ぶわけではありませんし
また、お金があるがために争いが起こり
かえって災いを招く場合もあるわけです

たくさんのお金があれば
権力者にに頼っておけば
あるいは自分に地位があれば
何もかもが上手くいきそうな気もします
しかし
どんな知恵者も権力者も
持っているのはこの世の知恵であり
神の知恵には遠く及ばないものです

「なぜならこの世の知恵は神の前では愚かなものだからである」
(コリント人への第一の手紙3章19節)


ならば、この世の知恵に頼る生き方ではなく
神の知恵に頼る生き方でもって
わたしたちは各々の人生を建築していくのが幸いなのですが
神さまを信じられない人にとっては
神の言葉に従うよりも
世の中の言葉に従っていく方が効果的に思えるものです
そのため
救われて人生の土台をイエスの上に置いたはずでも
結局は世の中の知恵の方に頼ろうとしてしまうことから
信仰につまづいてしまう人も少なくありません
それでも
なお神の言葉を信じて従っていこうとする人には
必ず希望と平安が与えられます

「主のお語りになったことが必ず成就すると信じた女は
なんとさいわいなことでしょう」
(ルカによる福音書1章45節)


みつかいから神の子を身ごもったことを告げられたマリヤは
自分の身に起こった信じがたい事実を
『わたしは主のはしためです
お言葉どおりこの身に成りますように』
と受け入れました

自分の人生に不都合と思えることが起きても
それが神から来るものであるなら潔く受け入れる
その覚悟が信仰です
わたし自身はただの弱い人間であるけれど
神が与える試練ならばきっと乗り越えることができるでしょうと
祈りつつ前に向かって歩んでいく
わたしたちの信仰生活はその繰り返しであり
そのたびに与えられる助けを神の証として大切に持ち続け
信仰の家の建築を続けていくのです

人生には選択する場面が色々ある中で
完全に間違いのない選択をすることなど
人間にはありえません
簡単な買い物でさえもあれこれ悩んだ末
結局失敗したと思うこともあるわたしたちが
どうやって人生の節目を間違いなく生きていくかといえば
それはもう神の知恵に頼るしかないのです

世の中には良いことをいってくれる人は色々あるでしょうが
本当に心からあなたのことを心配してくれる人がどれほどあるでしょうか
ルカによる福音書15章において
父の財産を分けてもらって出て行った放蕩息子が
お金がなくなり、誰も相手にしてくれなくなったとき
最後に彼が思い出したのは
どんな時にも彼を捨てない父親の存在でした

わたしたちにとって本当に頼りになる方は誰か
その人生を幸いに導いてくださる方は誰か
何が一番大切なのかを
もう一度見直してみましょう

人間は成長の過程で色々な目にあいながら傷も負っていくけれど
そんな人生であっても
その土台がイエスの上にあり、イエスと共に生きていくならば
必ずすべてのことは幸いになります



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