今週のみことば


12月4日


「あなたはあなたがたの神、主の聖なる民である
あなたの神、主は地のおもてのすべての民のうちからあなたを選んで
自分の宝の民とされた
主があなたがたを愛し、あなたがたが選ばれたのは
あなたがたがどの国民よりも数が多かったからではない
あなたがたはよろずの民のうち、もっとも数の少ないものであった
ただ主があなたがたを愛し
またあなたがたの先祖に誓われた誓いを守ろうとして
主は強い手をもってあなたがたを導き出し
奴隷の家から、エジプトの王パロの手から、あがない出されたのである
それゆえあなたは知らなければならない
あなたの神、主は神にましまし、真実の神にましまして
彼を愛し、その命令を守る者には
契約を守り、恵みを施して千代に及び
また彼を憎む者には、めいめいに報いて滅ぼされることを
主は自分を憎む者には猶予することなく、めいめいに報いられる
(申命記7章6-10節)


このみことばはイスラエルの民に贈られたものですが
イスラエルの民が神の選民として選ばれたように
今その救いは異邦人にも及び
わたしたちも特選の民として救いに与ることができます

しかし特選の民といっても
特別に偉いから選ばれたわけではなく
イスラエルの民がそうであるのと同じく
小さくて力のない者だからこそ
神はそういう人を哀れみ、愛し、選んでくださったのです

それを何か勘違いして
クリスチャンである自分は人より偉いのだと誇るのは実に愚かなこと
しかし、信仰生活を続けている人の中には
そういう間違いに陥る人もあるのです
大切なのは
この救いはすべて神の愛によって与えられたものであることを理解し
決して自分を誇らないことです

「あなたがたの先祖たちは、わずか70人でエジプトに下ったが
いま、あなたの神、主はあなたを天の星のように多くされた」
(申命記10章22節)


かつてヤコブとその子どもたちが
エジプトの宰相となったヨセフのところへ身を寄せたときには
わずか70人ほどの人数でしたが
やがてモーセに率いられてエジプトを出る時
イスラエルの民の人数は成年男子だけでも約60万人(民数記1章46節)
全体では200万人はいたであろうと推測されています

そして
神は彼らを約束の地カナンへと導き出しますが
その地には試練が多くとも、同時に神の助けがあると
あらかじめ教えられていました

「あなたがたが行って取ろうとする地は
あなたがたが出てきたエジプトの地のようではない
あそこでは、青物畑でするように、あなたがたは種をまき
足でそれに水を注いだ
しかし、あなたがたが渡って行って取る地は
山と谷の多い地で、天から降る雨で潤っている
その地は、あなたの神、主が顧みられる所で
年の始めから年の終りまで
あなたの神、主の目が常にその上にある」
(申命記11章10-12節)


今わたしたちの日常も
様々な問題や、自ら労すべき苦労がつきものですが
わたしたちのすれずれ進み行く場所は神の顧みられる地ですから
そこにはいつも神の目が注がれて
神の助けがあり、祝福があるのです

その祝福は
年の始めから終りまで続くとあるように
残り少なくなってきた今年も
はじめから思い返してみると
お一人一人の上に様々な導きや助けがあったことでしょう

申命記では
神の祝福を得る道と、そうでない道の違いがはっきりと記されています
それはもうとても単純な内容ですが
ここを読むときには
わたしたちは改めて神に感謝し
これからも変わらず神を信じ、愛して従っていくべきと
心新たにさせられるところです

「もしあなたが、あなたの神、主の声によく聞き従い
わたしが、きょう、命じるすべての戒めを守り行うならば
あなたの神、主はあなたを地のもろもろの国民の上に立たせられるであろう
もし、あなたがたの神、主の声に聞き従うならば
このもろもろの祝福はあなたに臨み、あなたに及ぶであろう
あなたは町の内でも祝され、畑でも祝福されるであろう
またあなたの身から生まれるもの、地に産する物
家畜の産むもの、すなわち牛の子、羊の子は祝福されるであろう
またあなたのかごと、こねばちは祝福されるであろう
あなたは、はいるにも祝福され、出るにも祝福されるであろう」
(申命記28章1-6節)


ここには、生活や産業の祝福など
もろもろの祝福の約束が記される一方で
全く反対の内容も15節以降に記されています

神の憐れみがなければどうにもならない自分を
神は救ってここまで祝してくださったと
聖書のみことばを素直に受け入れていく人にとっては
この祝福の約束はただ有難いばかりですが
同じ聖書を読んでいても
着眼点が違えば
素直に神を信頼することも、救いを受け入れることもなく
自らが滅びの道を選択してしまう場合もあります

せっかく神から伸ばしていただいている救いの手を
つかむもつかまないも
あるいはつかんでいても途中で離してしまうのも
選択は各人にまかされています

神を信じようと思いつつも人の心は常に揺れていて
その心が一体どこに向いているのか
試練を通して常に試されているのです

「あなたの神、主がこの40年の間
荒野であなたを導かれたそのすべての道を覚えなければならない
それはあなたを苦しめて、あなたを試み
あなたの心のうちを知り
あなたがその命令を守るか、どうか知るためであった」
(申命記8章2節)


ところが
イスラエルの民の中にも神への感謝を忘れて、偶像に心を寄せる者もあり
そういう人はたとえ間違った道を歩んでいても
自分がおかしい状態であることに気づかないのでした

「そのような人はこの誓いの言葉を聞いても
心に自分を祝福して
『心をかたくなにして歩んでもわたしには平安がある』
と言うであろう
そうすれば潤った者も、かわいた者もひとしく滅びるであろう」
(申命記29章19節)


どんなところに置かれても神を忘れることなく
心をかたくなにすることなく
祝福を求めて進んでいきたいものです



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