今週のみことば


12月11日


「しかし、あなたは、自分が学んで確信しているところに
いつもとどまっていなさい
あなたは、それを誰から学んだか知っており
また幼い時から聖書に親しみ
それが、キリスト・イエスに対する信仰によって救いに至る知恵を
あなたに与えうる書物であることを知っている
聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって
人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である
それによって、神の人が、あらゆる良いわざに対して十分な準備ができて
完全にととのえられた者になるのである」
(テモテへの第二の手紙3章14-17節)


神とはどういう方であるのか、まだよくわからない時には
人は自分の思うままに生きようとするものですが
信仰生活を重ねるうちには
いろんな場面で神の助けや導きを体験し
また、間違った方向からも引き戻されるなど
日々軌道修正されながら
だんだん信仰も成長していくものです

はじめのうちは、”神におゆだねする”といっても何かもどかしく
自然と開かれていく道が地味なものであるならば
余計にあせって自ら別の道を模索しようとするかもしれません
また
信仰というものに対してまだ目が開かれていないと
信仰の重要性もわからず
その結果、心がすさんでくる場合もあるでしょう

聖書に記されている事がらはすべて神によって示されたものであり
人が正しく生きていくために重要な内容となっていますから
それをないがしろにしていては
いつの間にか欲に流され
自らの道が災いに向いていても気づかないものなのです

ですから
日ごろから聖書に親しむことで
わたしたちはどう生きるべきかを心に留めつつ
実生活の中で、実際に神の働きを体験しながら
本当にこの神は生きて働いてくださる方なのだと
確信していくことが重要です
そして、与えられた確信を持ち続けるために
神への感謝を忘れてはなりません

考えてみれば、色々不思議な巡りあわせがあって
それが神によるものだと確信することは
すなわち感謝に結びつきます
ところが
神の働きを受けながらも気づかない人は、感動のない人
神によって生かされていることもわからず
自分は自分の力で生きていると思う人
そういう人は、しばしば自分を誇るものです

人は感動すると、内側から力がわいてくると言われていますが
多く感動する人は、多く感謝する人
多く神に栄光を帰する人は、更にたくさんの恵みを受ける人です

また
聖書に親しむことを、単に知識を仕入れることだと勘違いしてしまうと
ただ歴史的に聖書を読んでしまったりして
真理をつかむことがなかなかできません
わたしたちが聖書のみことばから学ぶものは”未来への望み”
すなわち、必ず幸いになるとの確信です

しかし
いつまでも辛い状況が続けば心も信仰も弱っていきそうですが
どんな時にも希望をつなぐみことばがわたしたちを勇気付けてくれます

「もし遅ければ待っておれ
それは必ず臨む
滞りはしない」
(ハバクク書3章2節後半)


一般的に人々が未来を予測するのは
自分の過去の経験によるものですが
聖書によって教えられる未来は決してそのようなものではありません
神はひとりひとりをちょうど良いところへ導いてくださる方
同じ病気の人でも最適な治療法は違うように
ひとりひとりに対する神の導きは異なります
ですから
わたしたちは他人と自分を比べて嘆いたり
過去のデータにとらわれてあせったりしないで
これから神がどのようにしてくださるのか
希望をもって神に祈り
各々の置かれたところで自分の成すべきことをなしていきましょう

もし、神が信頼できず、未来への希望もないならば
人は自分の力や、金品や権力を頼りにし
やがて道を踏み外し、祝福から遠ざかっていくのです

ヨシュア記7章には
エリコを占領したのち、アイの町へ攻めていったイスラエルの民が
敗退した様子が記されています
全軍をつぎ込むほどでもない程度の町でありながら負けてしまったのは
実はアカンという人が、神にそむいて戦利品を隠し持っていたからでした
彼は分捕り物である金品に目がくらんでしまったのです
これに対して神はこう語られました
「イスラエルよ、あなたがたのうちに、滅ぼされるべきものがある
あなたがたが、その滅ぼされるべきものを
あなたがたのうちから滅ぼし去るのでなければ
わたしはもはやあなたがたとは共にいないであろう」(13節)

アカンはその後、”滅ぼし尽くすべきもの”として滅ぼされていきましたが
金品に目がくらみ、神に背くアカンの姿は
わたしたちの心にも起こりうるものです

どんな時にも、わたしたちが頼りにするのは神しかありません
そう潔く心に決めて
さまざまな試練のうちにもその思いが確信に変えられていくように
いよいよみことばに従って
正しく生きることを学んでいきましょう




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