今週のみことば


2月20日


「さてエリコは、イスラエルの人々のゆえにかたく閉ざして
出入りするものがなかった
主はヨシュアに言われた
『見よ、わたしはエリコと、その王および大勇士をあなたの手に渡している
あなたがたいくさびとはみな、町を巡って
町の周囲を一度回らなければならない
六日の間そのようにしなければならない
七人の祭司たちは、おのおの雄羊の角のラッパを携えて
箱に先立たなければならない
そして七日目には七度町を巡り
祭司たちはラッパを吹き鳴らさなければならない
そして祭司たちが雄羊の角を長く吹き鳴らし
そのラッパの音が、あなたがたに聞こえる時
民はみな大声に呼ばわり、叫ばなければならない
そうすれば、町の周囲の石垣は崩れ落ち
民はみなただちに進んで、攻め上ることができる』」
(ヨシュア記6章1-5節)

強固な石垣で囲まれたエリコの町を落とす方法を
神はヨシュアに具体的に教えています
それはとても不思議な方法で
イスラエルの民はそのために直接戦うのではなく
一日に一度城壁の周りを回るというものでした
そして
7日目には7回まわって叫び声をあげた時、石垣は崩れ
イスラエルの民はただちに城内へと攻めていきました

このエリコでの戦い方のように
わたしたちそれぞれの人生の戦いにおいても
すべてを神にゆだねて黙々と日々を祈りのうちに歩んでいくことが求められ
一日一日の信仰の積み重ねが
その人の力となっていきます

信仰とは
今日救われて即座に完成するものではなく
こうして地道な、ある意味まどろっこしい歩みを繰り返すところに
少しずつ形成されていくもので
こんなことをしていてどうなるのか?と思うような日々であっても
それが神から与えられた道なのです

よく人は自分で自分をはかり
自分の考える基準で”わたしは恵まれていない”とか思いがちです
しかし
すべて人生の戦いは神の手によること
だからこそすべては神のご計画のうちだとゆだねていく姿勢が重要で
単純に人と比べて嘆いたり
あせって別の道にそれていくことがないように
一日一日与えられた道をしっかり歩んでいくようにしましょう

すべてのことは神より起こり
神の許しのうちにわたしたちは成長させられていくのです
それがわかれば自ずと謙遜になり
謙遜になれば自然と恵まれていきます

このエリコの町を攻め取る前
ヨシュアはあらかじめ2人の斥候をこの地につかわします
その時彼らがしのびこんだのは、遊女ラハブの家でした
ヨシュア記2章においては
ラハブはこの2人の斥候をかくまい、逃がしたこと
それは、彼女がイスラエルの神を信じていたからということ
そして、後にエリコが攻め取られる時には
自分たちを助けて欲しいと願ったことなどが記されています

逃がしてくれたラハブに対して
2人の斥候は
彼女が窓から赤い紐をたらすべきこと
それを目印に難を逃れることを約束しました
言われたとおりにすぐに赤い紐を窓に結ぶラハブ
彼女は遊女ではありましたが
物事を正しく見る目を持ち
神の前に正直に歩むことで救いを得
やがてダビデからイエスにつながる系図の中に
ボアズの母として組み込まれるのでした

当時の常識では絶対陥落しないと思われたエリコであっても
イスラエルの神は必ず事を成就されると信じたラハブの信仰は
彼女の家族を救い
彼女自身の人生も幸いへと導いたのです

どんなに不可能と思えることでも対応してくださる神
しかし、そこには必ず
”神の言葉に従うならば”との条件がついています
ラハブもそれに従い
ヨシュアも、イスラエルの民もみな従いました

わたしたちの人生には
こんなことをして何になるのか?と思うようなことを
神さまから要求されることがあります
自分は強くて、できる人間だと自負している人にとっては
ただ石垣の周りをまわるだけのような日々は
耐え難いものかもしれません
けれども
すべての幸いのもとは
”神の言葉に従うならば”との条件の上になるのであれば
わたしたちはただ自分のなすべきことを成して
日々を祈りのうちに過ごしていくのみです

「ああ主なる神よ、あなたは大いなる力と
伸べた腕をもって天と地をお造りになったのです
あなたのできないことは、ひとつもありません」
(エレミヤ記32章17節)

「イエスは彼らを見つめて言われた
『人にはそれはできないが
神にはなんでもできない事はない』」
(マタイによる福音書19章26節)


それぞれ置かれたところで戦い(問題)と向き合いながら
いよいよ信仰にたって
どんな問題も必ず幸いへと導いてくださる神を信じて
潔く、正直に、素直に神に祈り求めていきましょう



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