今週のみことば


3月20日


「兄弟たちよ、わたしの心の願い、彼らのために神にささげる祈りは
彼らが救われることである
わたしは彼らが神に対して熱心であることはあかしするが
その熱心は深い知識によるものではない
なぜなら、彼らは神の義を知らないで、自分の義を立てようと努め
神の義に従わなかったからである
キリストは、すべて信じる者に義を得させるために
律法の終りとなられたのである」
(ローマ人への手紙10章1-4節)

「義を追い求めなかった異邦人は、義、すなわち、信仰による義を得た
しかし、義の律法を追い求めていたイスラエルは、その律法に達しなかった
なぜであるか
信仰によらないで、行いによって得られるかのように
追い求めたからである
『見よ、わたしはシオンに、つまづきの石、さまたげの岩を置く
それにより頼む者は、失望に終ることがない」
(ローマ人への手紙9章30-33節)

天地創造の主である神ご自身が肉体をもって生まれ
万民の罪のあがないのために十字架にかかり
その流した血によって与えられた救い(洗礼)を受けることで
イスラエルとは縁のなかった異邦人が神の救いを得る一方
律法を完璧に守ることで神の救いを受けようとしてきたイスラエルは
神への信仰よりも、律法の行いを重視し
結局、神の「義」すなわち「救い」に至りませんでした

天地創造の主である唯一の神を信仰するイスラエルは
神が肉体をもってこられたイエスを信じることができず
この”つまづきの石、さまたげの岩”につまづいたのです

自らもイスラエル人であるパウロは
同胞である彼らがみなイエスを信じて
信仰による義、すなわち救いを受けるようにと
一生懸命勧めます

確かにイスラエルは神に対して大変熱心に仕えていますが
その熱心は正しい認識に基づくものではなく
よって、正しい救いを知らず
自らの行いで救いに達しようとするため
本当の救いに至らないのでした

本来、イエスご自身の姿こそ、律法の目標です
律法が完成された者が義とされる(救われる)なら
イエスを信じ、受けいれた者は
律法そのものが完成された方を受け入れているのですから
すこで救われるわけです
そして
こうして信じる者がすべて救われるために
神ご自身が十字架にかかってくださったことを
あらためて認識しておきましょう

どんなに正しく生きようとしても
人間には完全がありません
どんなに頑張ってもそれはない
じゃあどうせダメだからどうでもいい生き方を・・・というのでは
人生そのものが殺伐として、平安がありません

人間が生きていくには希望が必要であり
イスラエルがつまづいた石=イエスにより頼む者は
どんな境遇に置かれても失望に終わることがないのです

「しかし、今や、神の義が、律法とは別に
しかも律法と預言者とによってあかしされて、現された
それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって
すべて信じる人に与えられるものである
そこにはなんらの差別もない
すなわち、すべての人は罪を犯したため
神の栄光を受けられなくなっており
彼らは値なしに、神の恵みにより
キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである」
(ローマ人への手紙3章21-24節)

「キリストに合うバプテスマを受けたあなたがたは
皆キリストを着たのである
もはや、ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由人もなく
男も女もない
あなたがたはキリストに・イエスにあって一つだからである
もしキリストのものであるなら
あなたがたはアブラハムの子孫であり
約束による相続人なのである」
(ガラテヤ人への手紙3章27-29節)


すべて信じる者に与えられるこの救いには差別がなく
そして、この救いを受けるため
わたしたちは値なしに、神の恵みにより受けることができる
こうして考えていくと
ただ素直に神を信じ、受け入れていけば良いだけの簡単なことのようで
現実には、救われるまで、あるいは救われた後でも
人の心は揺らいでいくものです

「神を知らなかった当時、あなたがたは
本来神ならぬ神々の奴隷になっていた
しかし、今では神を知っているのに
否、むしろ神に知られているのに
どうして、あの無力で貧弱な、もろもろの霊力に逆戻りして
またもや新たにその奴隷になろうとするのか」
(ガラテヤ人への手紙4章8-9節)


「自由を得させるために
キリストはわたしたちを解放してくださったのである
だから堅く立って
二度と奴隷のくびきにつながれてはならない」
(ガラテヤ人への手紙5章1節)


真の神の救いを知らなかった当時
わたしたちは世の中の価値観やしがらみにがんじがらめになり
お金を信じ、名誉を好み、力のある人を頼みとしてきました
しかし今はもう神に救われ
神ご自身が聖霊として内側に住んで下さっているのに
いつしかその目は神からはなれていっているかもしれません
こうしてまた世の中の奴隷に戻っていくなら
せっかく自由にしてくださった神に対して申し訳ないこと
そして、自分自身にとっても辛い生き方です

「だから、地上の肢体、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪欲
また貪欲を殺してしまいなさい
貪欲は偶像礼拝にほかならない
これらのことのために、神の怒りが下るのである
あなたがたも、以前これらのうちに日を過ごしていた時には
これらのことをして歩いていた
しかし今は、これらいっさいのことを捨て
怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を捨ててしまいなさい
互いにうそを言ってはならない
あなたがたは古き人をその行いと一緒に脱ぎ捨て
造り主のかたちに従って新しくされ
真の知識に至る新しき人を着たのである」
(コロサイ人への手紙3章)


キリストに似るべく救われたわたしたちは
救われてもなお残る各々の問題に向き合いながら
心のうちに起こるさまざまな悪い欲や怒りを捨て去ることができるように
神の前の信仰生活が重要になってきます

「実に信仰は聞くことにより
しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」
(ローマ人への手紙10章)


みことばによって救いの道を知り
みことばによって平安を得
みことばを聞くことで教えられ
そこからやがてわたしたちは変えられていかなくてはなりません

「なぜなら、キリストの愛がわたしたちに強く迫っているからである
わたしたちはこう考えている
ひとりの人がすべての人のために死んだ以上
すべての人が死んだのである
そして、彼がすべての人のために死んだのは
生きている者がもはや自分のためではなく
自分のために死んでよみがえった方のために
生きるためである」
(コリント人への第二の手紙5章14-15節)


結局、わたしたちが救われるのも
正しい生き方をして平安のうちを歩むのも
すべては神の愛によるものです

救われたわたしたちは
もはや自分のために生きているのではなく
わたしたちのために死んでよみがえって下さったかたのために生きている
ならば、恥ずべき愚かな行いをして良いはずがありません

神の愛と救いの有難さを心に留めて
心新たに新しい週を歩みだしていくことが出来ますように



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