今週のみことば


6月19日


「あなたがたは、地の塩である
もし塩のききめがなくなったら
何によってその味が取り戻されようか
もはや何の役にも立たず、ただ外に捨てられて
人々に踏みつけられるだけである
あなたがたは、世の光である
山の上にある町は隠れることができない
また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はいない
むしろ燭台の上において、家の中のすべてのものを照らさせるのである
そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かし
そして、人々があなたがたの良い行いを見て
天にいますあなたがたの父をあがめるようにしなさい」
(マタイによる福音書5章13-16節)

「だれもあかりをともして、それを穴倉の中や枡の下に置くことはしない
むしろはいってくる人たちに、そのあかりが見えるように、燭台の上に置く
あなたの目はからだのあかりである
あなたの目が澄んでおれば、全身も明るいが
目が悪ければ、からだも暗い
だからあなたの内なる光が暗くならないように注意しなさい
もし、あなたのからだ全体が明るくて、暗い部分が少しもなければ
ちょうど、あかりが輝いてあなたを照らす時のように
全身が明るくなるであろう」
(ルカによる福音書11章33-36節)


人の心は弱いもので
とかくサタンに惑わされやすく
そうなると何事も自分が一番でなければ気がすまなくなったり
わきまえのない言動で周りを混乱させるなど
クリスチャンといえども
それが名ばかりのものになってしまう危険性とは常に隣り合わせです

信仰信仰と言いつつも
心の中では「自分がすべてだ」と思いがちで
その間違った考え方から間違いが生まれ
それでも自分では間違っているとは認めたくないでしょう

毎週礼拝に集っている人がすべて
お説教をそのまま受け入れることができるわけではなく
現実には、自分に都合の悪い話には耳をふさいだり
心の中で話の焦点をすりかえて
勝手に自分の心を和ませているかもしれないわけです

「ともしび」とは常に暖かい光を放つものですが
いつも自分が一番でなければ気がすまない人は
暖かい光を放つことはできず
殺伐とした雰囲気を周りに放ちます
それは目がくらまされ、正しいものが見えていないからで
すなわち、その心の中で神の光が暗くなってしまっているのです

わずかの量でも料理の味を大きく左右する塩は
その味があるがゆえに重宝されますが
もし味がないなら役に立ちません

わたしたちひとりひとりも
それぞれの立場は違えど
神によって用いられ輝かされるものを与えられていて
与えられた味を引き立たせ、光を輝かせる歩みをするための努力が必要です

「正しい者の道は、夜明けの光のようだ
いよいよ輝きを増して真昼となる
悪しき人の道は暗やみのようだ
彼らは何につまづくかを知らない」
(箴言4章18-19節)


不安から目先の欲に走ったり
コンプレックスから自分を大きく見せることに固執するなど
間違った道はいつもすぐ近くにあるものです
正しい道を選択しても、そこには悩みもあるわけですが
同時に神の助けがあることも忘れてはなりません

「悩みの日にわたしを呼べ
わたしはあなたを助け、あなたはわたしをあがめるであろう」
(詩篇50篇15節)


しかし、こうして神を求め、助けられても
そこに感謝の心が伴っているでしょうか
感謝は長続きせず
いつの間にか自分に栄光を帰していないでしょうか

「主はわれらの神であり
われらはその牧の民、そのみ手の羊である
どうか、あなたがたは
きょう、そのみ声を聞くように」
(詩篇94篇7節)


わたしたちの指導者は常に神のみです
聖書のみことばでも、人の都合よく変えてしまうなら
それはもう神の言葉ではなく人の言葉
その時、指導者は人になってしまっているのです

正しい信仰は、幸いな人生のベースになるものです
本当の意味で楽しく心豊かに生活することを望み
それを実現させる歩みをしていきましょう



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