今週のみことば


9月18日


「アブラムはロトに言った
『わたしたちは身内の者です
わたしとあなたの間にも、わたしの牧者たちとあなたの牧者たちの間にも
争いがないようにしましょう
全地はあなたの前にあるではありませんか
どうかわたしと別れてください
あなたが左に行けばわたしは右に行きます
あなたが右に行けばわたしは左に行きましょう』
ロトが目を上げてヨルダンの低地をあまねく見わたすと
主がソドムとゴモラを滅ぼされる前であったから
ゾアルまで主の園のように、またエジプトの地のように
すみずみまでよく潤っていた
そこでロトはヨルダンの低地をことごとく選びとって東に移った
こうして彼らは互いに別れた
アブラムはカナンの地に住んだが、ロトは低地の町々に住み
天幕をソドムに移した
ソドムの人々はわるく、主に対してはなはだしい罪びとであった」
(創世記13章8-13節)

一緒にエジプトを出たアブラムとロトは
共に財産が多く、同じ場所に住めなかったので
トラブルを避けるために別れることになりました
その時
アブラムはまず甥であるロトから先に行き先を選ばせます
するとロトはすぐにまわりを見渡し
自分がこれから家畜を飼っていくのに都合の良い場所を選びましたが
そこは神に滅ぼされる前のソドムとゴモラがある場所でした
一方、アブラムはカナンの地に移り住みます
その地を神は『永久にあなたとあなたの子孫に与える』と約束されたのでした

アブラムとロトのそれぞれの選択方法は対照的でした
アブラムは自分の道を神にゆだね
ロトは自分の考えで動いた
アブラムは神に立つ人、ロトはそうではない人でしたから
結果的にロトは退廃した町ソドムを選び
その後、神がその町を滅ぼすことで財産も妻も失うこととなるのです

では、なぜ神はロトに対して
前もって具体的に忠告されないのでしょうか
それは、その時点で彼の信仰が計られているからでしょう
人は自分の中の価値観で行動しようとし
それが間違っていても忠告を受け入れようとはしないものです
そして痛い目にあっても
自分の中の間違いに気づかないままであれば
いつまでも同じ間違いを繰り返すことになります

親が子どもを叱るとき
子どもの何を叱っているのかというと
親から受けついだものを叱っている場合が多いものです
つまり、子は親の鏡
親が間違った考えや価値観を持ったままであれば
それはそのまま子どもに伝わり
子どももまた親の失敗を繰り返すことになるわけです

”救いの道はどこにあるのか”と考えることは
すなわち
”自分にとって楽で都合の良い道はどこか”
と考えることだと勘違いしている人も多いのですが
本当の救いの意味とは”新たに生まれ変わる”ことであり
神を信じ、神の側に立った価値観をつかんでいくことで
自分の中の間違いが正され
整えられていくことが重要なのです

わたしたちの周りには
本当の救いの道と
ただ自分の心を喜ばせるだけの道があって
両方ともすぐに見出せるほど近くにあるものです
そして
どちらを選ぶのかは各々に任せられている
その時、信仰をもって選択できる人は幸いです

「信仰によって、アブラハムは
受け継ぐべき地に出て行けとの召しをこうむった時
それに従い、行く先を知らないで出て行った」
(ヘブル人への手紙11章8節)

「神の御旨を行って約束のものを受けるため
あなたがたに必要なのは忍耐である
『もうしばらくすれば、きたるべきかたがお見えになる
遅くなることはない
わが義人は、信仰によって生きる
もし信仰を捨てるなら、わたしのたましいはこれを喜ばない』
しかしわたしたちは、信仰を捨てて滅びる者ではなく
信仰に立って、いのちを得る者である」
(ヘブル人への手紙10章36-39節)


人生にあって、わたしたちが置かれる場所も立場も出会う人も
すべては神のご計画のうちにあるものです
そこには理不尽と思えることも多々あるでしょう
信仰を教えられる教会であっても
そこには人間的にできた人ばかりが集まっているわけではなく
色んなトラブルがあるかもしれません

ちょうど自動車教習所のコースが道路の縮図であるように
教会の中も人生の縮図のようなものです
そこで何が正しくて何が間違っているのかを教えられたら
自分の生き方にあてはめて
自分を整える材料にしましょう

「神を見上げて」とか、「神の言葉に耳を傾けて」といった
よく語られる短いフレーズにこそ、重要な意味があります
要は、神にゆだねるという気持ちを常に持っていなければ
つい間違った選択をしかねないということ
人間はそれほど弱いものだということです

わたしたちはみな自由に自分の人生を選んで歩むわけですが
そこに信仰をまじえていくかどうかが
人生の分かれ道となるでしょう



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