今週のみことば


10月1日


「イエスが帰ってこられると、群衆は喜び迎えた
みんながイエスを待ち受けていたのである
するとそこに、ヤイロという名の人が来た
この人は会堂司であった
イエスの足もとにひれ伏して、自分の家においでくださるようにとしきりに願った
彼に12歳ばかりになるひとり娘があったが、死にかけていた
ところが、イエスが出て行かれる途中、群衆が押し迫ってきた」
(ルカによる福音書8章40-42節)

群衆の中には、12年間も病気を患っている女性が居て
彼女がイエスの衣のふさにさわると
病気はたちまち癒されていきました
彼女はそれまで医者のために多くのお金をつぎ込んできましたが
結局治らなかったため
イエスの衣のふさにでもさわれば癒されるのではないかと思ってさわったのです
その時イエスの周りにはたくさんの群衆がいましたが
彼女に対して、イエスから「力が出て行った」と記されているように
興味本位でとりまいている人にではなく
信仰をもってふれた人に対して、神の力は注がれていったのでした

そうこうするうちに、ヤイロの家から人がきて
彼の娘が死んだことが伝えられます
しかし、イエスはヤイロに向かって言われました
『恐れることはない、ただ信じなさい。娘は助かるのだ』

すでに娘は死んでしまったというのに、この言葉は非常識と思えます
そして、この言葉に従うには
自分の中にあるひとつの考え方を捨てて
(これはすなわち己を捨てることでもありますが)
ただ純粋に神への信頼と信仰をもっていくことが必要です

ところが
その場に居て泣くばかりの人々は
『泣くな、娘は死んだのではない、ねむっているだけである』
との言葉を聞いてイエスをあざ笑うのでした
群衆は、自分には何の力もなく
ただ嘆き悲しむことしかできないというのに
信仰がないために
イエスの言葉を聞いても素直に受け入れられないのです

わたしたちは、たとえ信仰者であっても
この群衆のように、目の前の問題に対して希望を失い
何をしていいかわからず泣くだけで
心の中ではイエスに対して嘲笑するように
不信感を持ってしまうこともあるかもしれません

その後、ヤイロの娘は
イエスの『娘よ、起きなさい』との呼びかけに応じて生き返りますが
その様子を群衆は見ることはできませんでした
娘の部屋には両親と弟子たちしか入ることを許されなかったからです

人が生き返ったとの記述は、他にも
ヨハネによる福音書11章の「ラザロのよみがえり」があります
ここでも、葬られてすでに4日も経っていたことから
とても彼が生き返るなど信じられない状況でしたが
イエスは墓の石を除けるように命じ、人々はそれに従いました
そしてラザロはよみがえったのです

ヤイロの娘も、ラザロの場合も
事の始まりは、まずイエスに救いを求めたことでした
それによってイエスはその家に出向き、奇跡が行われます
これと同様に
ヨハネによる福音書2章のカナの婚礼における
水がぶどう酒に変わる奇跡についても
イエスがそこに招かれていたことによって起こったものです
常にイエスと共にある信仰生活は
わたしたちの人生にイエスをお招きしているようなものでしょう
12年も血漏という病気を患っていた女性が
信仰をもってイエスの衣にさわったように
神に対して心からの信頼を寄せていくことで何が起こるのか
聖書にはそれが如実に記されているのです

忘れてならないのは
何をするにも、どんな状況にあっても
神のご配慮のうちにさまざまなチャンスが与えられ
それが具体的にその先どうなることか告げられなくても
希望をもって信仰をもって歩んでいかなくてはならないということ
信じることによって、人は命が与えられ
活かされていくのです

人は皆、それぞれの弱さを持っていますが
その弱さが、病気であれ、見た目のことであれ
神にあれば、弱さがあるからといって損をすることはありません
神に用いられれば
小さな者も必要に応じて大きくされ強くされるからです

人の生死は神によるものです
状況によっては、希望を失い
生きているのに、死んだようになってしまう場合もある中で
わたしたちはどんなところに置かれても希望を失わないように
常に信仰をもって歩んでいきましょう

多くの人は奇跡のみを見るものですが
わたしたちは、それに至る過程に目をとめて
いかに信仰していけば良いのかを
聖書のみことばを通して
それが実生活に生きるように学んでいきたいものです



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