今週のみことば


10月29日


「ある金持ちがいた
彼は紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた
ところが、ラザロという貧しい人が全身でき物でおおわれて
この金持ちの玄関の前にすわり
その食卓から落ちるもので飢えをしのごうと望んでいた
その上、犬が来て彼のでき物をなめていた
この貧しい人がついに死に、アブラハムのふところに送られた
金持ちも死んで葬られた
そして黄泉にいて苦しみながら、目を上げると
アブラハムとそのふところにいるラザロとが、はるかに見えた
そこで声を上げていった
『父、アブラハムよ、わたしをあわれんでください
ラザロをおつかわしになって、その指先を水でぬらし
わたしの舌を冷やさせてください
わたしはこの火炎の中で苦しみもだえています』
アブラハムが言った
『子よ、思い出すが良い
あなたは生前良いものを受け、ラザロの方は悪いものを受けた
しかし今ここでは、彼は慰められ、あなたは苦しみもだえている
そればかりか、わたしたちとあなたがたとの間には大きな淵がおいてあって
こちらからあなたがたの方へ渡ろうと思ってもできないし
そちらからわたしたちの方へ越えてくることもできない』」
(ルカによる福音書16章19-26節)


この金持ちは、生前お金や物に富んでいましたから
神を求めることもなく、”神の救い”を持っていませんでした
一方、貧しく、苦難の中を生きたラザロは
世の中の物は何も持ってはいませんでしたが
神の救いに与っていたので、死んだ後、天国へ迎えられ
両者の立場は全く違うものになっていきます

黄泉に閉じ込められてはじめて自分の立場を知った金持ちは
何とか助かりたいと願うのですが、それはかなわないこと
ならば、せめて自分の兄弟たちが同じ苦しみに合わないように
ラザロを彼らのところへつかわして欲しいと願いますが
『彼らにはモーセと預言者とがある。それに聞くがよかろう』と、断られています
更に金持ちは
『もし死人の中からだれかが兄弟たちのところへ行ってくれましたら
彼らは悔い改めるでしょう』と訴えるものの、聞き入れられませんでした
『もし彼らがモーセと預言者とに耳を傾けないなら
死人の中からよみがえってくる者があっても
彼らはその勧めを聞き入れはしないであろう』

現在、神の救いを求める人のために、教会と牧師が置かれていますが
神を信じることも、求めることもしない人にとっては
たとえ奇跡を見せられても、それが信仰には結びつかないものです
それは、彼らは自分の頼るところ(お金や地位や名誉等)を持っていて
その心が神に向くことがないからです

一方、ラザロのように何も頼るものを持たず、苦しみの中にある人は
自然とその心は神に向き
救いに与るチャンスが与えられます
聖書によれば、実際にたくさんの人々が救いを求め
すぐに洗礼と聖霊のバプテスマを受けて、イエスに従う者となっています

「キリストのうちには、知恵と知識との宝が、いっさい隠されている」
(コロサイ人への手紙2章3節)


救われた者にはこの”宝”が与えられ
この世の戦いの中を生き抜く知恵を得て進むことができるわけですが
それは決して修行によって得るものではありません

「からだの訓練は少しは益するところがあるが
信心は、今のいのちと後の世のいのちとが約束されてあるので
万事に益となる」
(テモテへの第一の手紙4章8節)


救いは神の恵みによるものであって
わたしたちに必要なのは信じる心です
そしてその信心こそが、今を平安に生きる元となり
後の世にあっても天国を約束されるカギとなる

しかし、生前その信心がなかった人のためには
身代りのバプテスマがあり
こうして神はさまざまな形で救いの門を開いてくださっているのです

「そうでないとすれば、死者のためにバプテスマを受ける人々は
なぜそれをするのだろうか
もし死者が全くよみがえらないとすれば
なぜ人々が死者のためにバプテスマを受けるのか」
(コリント人への第一の手紙15章29節)


とはいえ、どんなに救いの門が開いていても
そこをくぐろうとするのは本人の意思によるもの
洗礼は、一度この世に死んで、新たに生まれ変わることですから
それまで持っていた自分の思いやこだわりを捨てて
神にあって新たにされ
それからはみことばに従って生きる方向へと変わっていくわけです

「一粒の麦が地に落ちて死ななければ
それはただ一粒のままである
しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる」
(ヨハネによる福音書12章24節)


神によって救われ、新しく生まれ変わることは
自分という一粒の麦が一度死ぬことです
自分の中のさまざまな間違った価値観やこだわりを持ち続けたままでは
豊かな実りはありません

「しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている
その測り知れない力は神のものであって
わたしたちから出たものではないことが、あらわれるためである」
(コリント人への第二の手紙4章7節)


人はみな土の器であり
その中に聖霊(=イエスご自身)という宝をいただくのです
そこから先、どのように人が導かれ、用いられていくかはすべて神によって定められ
神を信じる人はそれを生きる希望として心に留め
いよいよ信じ、幸いを求めて進んでいきます

本当に幸せなのは
世の中の多くのものを持っている人ではなく
真の神を知り、その救いを持っている人です
この世にあっては苦労も多く
気落ちすることも多々ありますが
そういう時こそいよいよ信仰に立ち
教会によって神よりの知恵と力を与えられ
神の証人としての日々を全うしていきましょう



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