今週のみことば


11月26日


「十字架にかけられた犯罪人のひとりが
『あなたはキリストではないか。それなら、自分を救い、またわれわれも救ってみよ』
と、イエスに悪口を言いつづけた
もうひとりは、それをたしなめて言った
『おまえは同じ刑を受けていながら、神を恐れないのか
お互いは自分のやったことのむくいを受けているのだから、こうなったのは当然だ
しかし、このかたは何も悪いことをしたのではない』
そして言った
『イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には
わたしを思い出してください』
イエスは言われた
『よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう』」
(ルカによる福音書23章39-43節)


自分の犯した罪は棚に上げ
神ならば自分を救ってくれても良いじゃないかと言う罪人と
片や、自分の罪を悔い、十字架上で罪をつぐないつつ
なお神に対して哀れみを乞い、救いを願う罪人と
両極端な罪人の姿がここにはあります

現実に、十字架にかけられるほどの罪を犯した身であっても
イエスの言葉一つで彼は「天国へ入る者」
つまりは「救われた者」となりました
それは、彼が心から悔い、救いを求めたことに対して
イエスご自身がそれを良しとされたからです

旧約の時代には、律法を守ることこそがすべてでしたが
神ご自身が救い主キリストとしてお生まれになり
十字架にかかって流された血による救い(洗礼)が与えられてからは
律法の行いによって義とされるのではなく
どんな人も、イエスを信じる信仰によって義とされる
すなわち救われる道が開かれたのでした

「しかし今や、神の義が、律法とは別に
しかも律法と預言者とによってあかしされて、現された
それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって
すべて信じる人に与えられるものである
そこにはなんらの差別もない」
(ローマ人への手紙3章21-22節)


本来、神から義(正しい)と認められるには
罪のない状態であることが必要です
ところが、どんな人も罪のない人はいない
それでもユダヤ人は何とか律法で自分たちが義に達しようとしたわけですが
それは無理なことでした
というのも、彼らはイエスを救い主と信じず
かえって彼につまづいてしまったため
信仰よりも、律法の行いを重視したからです

「では、わたしたちはなんと言おうか
義を追い求めなかった異邦人は、義、すなわち、信仰による義を得た
しかし、義の律法を追い求めていたイスラエルは、その律法に達しなかった
なぜであるか
信仰によらないで、行いによって得られるかのように、追い求めたからである
彼らは、つまづきの石につまづいたのである」
(ローマ人への手紙9章30-32節)


「十字架の言葉は、滅び行く者には愚かであるが
救いにあずかるわたしたちには、神の力である」
(コリント人への第一の手紙1章18節)


イエス・キリストこそ、律法を守る人の最終目標の姿ですが
それは人間の到達できない姿であり
だからこそ、律法のほかに神の救いが与えられ
律法と縁のなかった異邦人も
ただ信じる信仰によって
洗礼と聖霊による救いを受けることができるようになったのです
それはちょうど十字架上の罪人のように
どうか天国へ導いて欲しいと心から救いを求める信仰こそ
神の義(救い)へと到達させる方法なのでした

「わたしは福音を恥としない
それは、ユダヤ人をはじめ、ギリシヤ人にも、すべて信じる者に
救いを得させる神の力である
神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる
これは『信仰による義人は生きる』と書いてあるとおりである」
(ローマ人への手紙1章16-17節)


人間は、自分では良いことをしているつもりでも
反対になってしまうことがしばしばあります
泥の中に居るミミズをきれいに洗ってやるのはかえって不親切ですが
「わからない」「知らない」というのはそういうものなのです

そのように、人の思いは完全ではないにもかかわらず
人間は、悲しいかな心から素直になるのは難しく
自分の思いと違う状況になると
自分の面子が気になったり
神に対して腹が立つこともあるでしょう
しかし、その思いを少し飲み込んで冷静になれば
正しい方向も見えてきます

神を信じ、その救いを受ける者は
天国への道を約束され、正しい方向へと導かれる者
そこを従って歩む時には良いチャンスにも恵まれ
自分の行いではなく、神の義によって救われる者の幸いが証されるのです

「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった
それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」
(ヨハネによる福音書3章16節)




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