今週のみことば


1月22日


「人の歩みは主によって定められる
主はその行く道を喜ばれる
たといその人が倒れても、全く打ち伏せられることはない
主がその手をささえられるからである
わたしは、むかし年若かった時も、年老いた今も
正しい人が捨てられ、あるいはその子孫が
食物を乞い歩くのを見たことがない」
(詩篇37篇23-25節)

聖書に言うところの「正しい人」とは
神を信じ、崇め、救いを受けて、神の教え導く道に歩もうとする人です
では、どんな風に暮らしていることが神を崇めていることになるのかと
堅苦しく考えたのでは
信仰生活は実に苦しくなってしまいます

神と共に歩む信仰生活とは
ごく普通に生活することであり
その中で神を崇め、助けを求めて祈り、感謝していくこと
そして、そこに何が成ってくるのかを見て
神の働きを実感することです

24節には
「主を待ち望め、その道を守れ」とありますが
ヨシュア記2章に記されている通り
かつてエリコの城壁に住み
イスラエルの偵察隊をかくまった遊女ラハブも
イスラエルの神を信じ、その救いを待ち望んで
ふたりの斥候の命令に従い窓に赤い紐を結びつけました
やがてイスラエルがエリコに攻め入る時
これが目印となって
ここに居るラハブとその家族もみな助けられるというのです
この単なる口約束をラハブは信じたのでした

「信仰によって、遊女ラハブは
探りに来た者たちをおだやかに迎えたので
不従順な者どもと一緒に滅びることはなかった」
(ヘブル人への手紙11章31節)


なぜなら彼女はイスラエル人がエジプトを出てカナンに至り
そこで次々勝利をおさめている事実を知っていました
そしてその勝利は神によること
その神を自分も信じて従っていく覚悟が彼女にはあったのです

「これでわかるように
人が義とされるのは、行いによるのであって
信仰だけによるのではない
同じように、かの遊女ラハブでさえも
使者たちをもてなし、彼らを別な道から送り出した時
行いによって義とされたではないか
霊魂のないからだが死んだものであると同様に
行いのない信仰も死んだものなのである」
(ヤコブの手紙2章24-26節)


信仰生活とは
ただ信じていますという信仰だけではなく
まずは救いを受けること
そして、神の道に歩むという行為が求められます

「神の言葉に従う」とか、「神の道を歩む」などというと
なにかあいまいな感じがしますが
要するに
今、自分の目の前にあるところの
自分のなすべきことをする
それに尽きます

「信仰=何か恵んでもらうこと」のように勘違いしている人は
まず、恵みを受け取ることに熱心になる以前に
自分が持っている不必要なもの(間違った価値観)を
外していくことに熱心になるのが大切です

昔、自分がどのような立場の者であっても
洗礼と聖霊による救いを受けて神のものとなったら
今をどう生きているかが一番重要なのです
昔にこだわり、ひっかかっていると
同じ問題をいつまでも乗り越えることができません

昔は成功者といわれ
今は落ちぶれていたとしても
昔にこだわり面子を捨てることができなかったり
あるいはただ卑屈になってしまって前へ進まないのは
神の御旨ではないのです

人間は
希望がかなうとの期待感を裏切られると
その痛みは何倍にもふくらむといわれています
つまり期待するほどショックも大きい
しかし
神にあってなされることは
それがたとえ上手くいかなかったとしても
後に希望があります
人生の希望を神にゆだねることで
本当の平安を得ることができるのです
世の中のものは永遠ではなく
しばしば人の期待を裏切りますが
神は決して裏切りません

エリコに居たラハブには
別の場所に逃げるという選択肢もあったかもしれませんが
彼女は、”神と共に歩むことで問題を解決する道”を選びました
窓から赤い紐を垂らしておくだけの、その信仰の行為は
内容は簡単ですが
神に希望をおいていなければ
そんな簡単なことさえも踏み出すことは難しいのです

神の国を楽しくするのも厳しくするのも
結局は自分次第
神は常に自由の幅を広くもって導いてくださいますが
わざわざ狭く苦しく生きるも
与えられた範囲を楽しく生きるも
その人の気持ちにゆだねられています

「こういうわけで、わたしたちは、このような多くの証人に
雲のように囲まれているのであるから
いっさいの重荷と、からみつく罪とをかなぐり捨てて
わたしたちの参加すべき競争を
耐え忍んで走り抜こうではないか
信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ
走ろうではないか」
(ヘブル人への手紙12章1-2節)


人生にさまざまな不安材料があろうとも
神の道を進むために
今、自分の前にあるところのなすべきことをする
神を信じ、導きに従って
そこで出会うチャンスを大切にしていきましょう

「しかし、わたしは主を仰ぎ見
わが救いの神を待つ
わが神はわたしの願いを聞かれる」
(ミカ書7章7節)




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