今週のみことば


4月2日


「こうして民はヨルダンを渡ろうとして天幕をいで立ち
祭司たちは契約の箱をかき、民に先立って行ったが
箱をかく者がヨルダンにきて、箱をかく祭司たちの足が水ぎわにひたると同時に
(ヨルダンは刈入れの間中、岸一面にあふれるのであるが)
上から流れくだる水はとどまって
はるか遠くのザレタンのかたわらにある町アダムのあたりまで
うず高く立ち
アラバの海すなわち塩の海の方に流れくだる水は全くせきとめられたので
民はエリコに向かってわたった」
(ヨシュア記3章14-16節)

エリコを偵察するためラハブのところに行っていたふたりの斥候が帰り
ヨシュアに報告しました
『ほんとうに主はこの国をことごとくわれわれの手にお与えになりました
この国の住民はみなわれわれの前に震えおののいています』(2章24節)

これを聞いてついにイスラエルの民はヨルダンを渡り
カナンの地へと入って行きます

ヨルダンを渡る際には、まず契約の箱をかく祭司たちが川に入って行きますが
彼らの足が水にひたると同時に水はせき止められ
そこは一時的に乾いた地となったので
すべてのイスラエルがそこを渡っていきました
この時期のヨルダン川は本来ならば水が多く、渡るのは困難なはずでしたが
神はこうして彼らを助けて下さったのです

モーセ亡き後
代わりに指導者として立てられたヨシュアを先頭に
カナンの地へと入ったイスラエルの民は
これから様々な戦いに遭遇します
しかし、ヨシュアは忠実に神の言葉を守って民を導いていきましたから
その要所要所で必ず神の助けがありました

「ヨルダンの向こう側、すなわち西の方におるアモリびとの王たちと
海辺におるカナンびとの王たちとは皆
主がイスラエルの人々の前で、ヨルダンの水を干しからして
彼らを渡らせたと聞いて
イスラエルの人々のゆえに、心は消え、彼らのうちにもはや元気もなくなった」
(ヨシュア記5章1節)


かつて、エジプトの軍勢に追われていた時も
紅海が目の前でわかれ、そこをイスラエルの民は進んでいったように
このたびもヨルダン川がせき止められた奇跡は
カナンの地に住む人々を震撼とさせました
そのため、エリコの町は堅く閉ざされていましたが
その堅固な城壁も、神の言葉に従うことであっけなく崩れていきます(6章)

そのエリコに入る前
ヨシュアは「主の軍勢の将」と出会い
『あなたの足のくつを脱ぎなさい
あなたが立っている所は聖なる所である』と言われました

出エジプトから40年
神の契約の地カナンへ入ったヨシュアに
そこは神が与えた聖なる地であることがあらためて告げられ
ヨシュアは言われたとおりにくつを脱ぎます

ここまでの長い年月の間
イスラエルのために神がなされた数々の奇跡を忘れることなく
また、これからも神の前に己を捨て(裸になって)へりくだって従っていくことは
彼らにとって一番重要なことでした

これは、わたしたち信仰者にとっても最も重要なポイントです
聖書は単なる神話ではなく
わたしたちの人生にそのまま生きてくるもの
神がこれから導いてくださる地へと
わたしたちひとりひとりも歩んでいます
そして、そこが幸いな地だとは教えられていても
その行く先々には試練も待っていて
問題にぶつかるたびに
これからどうすればいいのか途方にくれることもあるでしょう

人間は愚かな生き物なので
自分の経験だけですべてを判断しようとするため
経験のないことが起こると
そこが幸いにつながる道であっても
進むことを躊躇しがちです
せっかく神が導いてくださっているならば
自分の経験でもって神の言葉に否定的になるのではなく
前を向いて進んでいきましょう

神と共に歩む道では
無駄な時間を過ごしているようでも
実は人生に必要な時間であったことが後からわかるものです
その道には派手さがなく、あまりパッとしないかもしれませんが
心に安らぎが得られることを重要視するのが大切です
一方、そこで欲を起こすと問題も起きてきます

イスラエルの民は
困った時には必ず神のところへ戻っていきました
このように、心の安らぎが与えられるところを持っておくのは重要です
そういう場所が教会であり
祈って聖霊を与えられるなら
もし、ここから先どうにもなりそうにないようなところに置かれても
何とかなるような気がする・・・と、希望が与えられるのです

「主にとって不可能なことがありましょうか」
(創世記18章14節)


先の見えない不安の中にあって
「絶対」という揺るぎない存在は神以外にないことをあらためて認識し
神の前にへりくだり、幸いを信じて祈り
各々の進むべき道へと踏み出していきましょう



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