今週のみことば
4月23日
「あなたがたは自分のために、虫が食い、さびがつき
また、盗人らが押し入って盗み出すような地上に
宝をたくわえてはならない
むしろ自分のため、虫も食わず、さびもつかず
また、盗人らが押し入って盗み出すこともない天に
宝をたくわえなさい
あなたの宝のあるところには、心もあるからである
目はからだの明かりである
だから、あなたの目が澄んでおれば、全身も明るいだろう
しかし、あなたの目が悪ければ、全身も暗いだろう
だから、もしあなたの内なる光が暗ければ
その暗さは、どんなであろう
だれも、ふたりの主人に兼ね仕えることはできない
一方を憎んで他方を愛し
あるいは、一方に親しんで他方をうとんじるからである
あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない」
(マタイによる福音書6章19-24節)
多くの人にとって「宝」とは
お金であったり、身の安泰であったりするわけですが
お金をよりどころとしていくことも
病気にならないようにと必死に備えることも
一生懸命になればなるほど、かえって心の平安からは遠ざかってしまうものです
それは
人は「神」と「富」の両方を重要視することはできず
お金に希望を置くようになると、神よりお金の方が大事に思えてくるため
お金と引き換えに、神よりの平安を失ってしまうからです
確かに、将来の年金のことなど気にしないでもすむような蓄えがあれば
一時的にはどんなにか気楽なことでしょう
しかし、人間的な将来の備えは、どんなに蓄えたところで
今度はお金で解決できない問題が常につきまとい
不安感からは逃れることができないのです
”あなたの宝のあるところには、心もある”
自分にとっての宝がお金の人はいつもお金のことが心にあり
自分の健康にこだわる人はいつも健康のことばかりが心にあります
しかし
このような人間的な宝を何も持っておらず
その日一日をただ神にゆだね
乏しくあっても、病気であっても、悩みをかかえていても
神に寄り頼むことを第一としている人は
日々本当の平安を与えられて
結果的には、穏やかな日常生活を送ることができるのです
”だから、あなたの目が澄んでおれば、全身も明るいだろう
しかし、あなたの目が悪ければ、全身も暗いだろう”
大切なのは、あなたの目が何を見ているかです
神を見ている目は澄んでいて
その行動も潔く無駄がなくまっすぐ導かれていきますが
富に目がくらんだ人は
神よりの光を得ることができず
自らの欲でその心はいよいよ暗くなり、迷っていくのです
「それだから、あなたがたに言っておく
何を食べようか、何を飲もうかと、自分の命のことで思いわずらい
何を着ようかと自分のからだのことで思いわずらうな
命は食物にまさり、からだは着物にまさるではないか
空の鳥を見るがよい
まくことも、刈ることもせず、倉に取り入れることもしない
それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる
あなたがたは彼らよりもはるかにすぐれた者ではないか
あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて
自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか」
(同章25-27節)
「だから、あすのことを思いわずらうな
あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう
一日の苦労は、その日一日だけで十分である」
(同章34節)
もし、ヤケになって「死にたい」と思う人であっても
人はそう簡単に死ぬことはできませんから
死ぬことばかりを考えるのではなく、とりあえずすべてを神にゆだねて
一年でも二年でもそのまま信じて歩んでみて
しばらくしてから自分の人生がどうであるかを判断しても遅くはありません
そして
ふり返ってみると
すべて自分が通ってきた道のりは必要なものだったことに気づく
そういう風に必ず神さまはして下さいます
それにはしばらくの時間を要しますし
昔のしがらみ(価値観)や心のこだわりからなかなか簡単には離れられなくても
神のほうへ向いて進む努力をする時には
一日一日が守られて
平安が与えられると共に、やがて状況も好転していきます
それは、神は一人ひとりの立場も必要なこともみなご存知で
人が幸いな方向へと向くように
自然と導いてくださるからです
ただ、その自然な導きにのるかどうかは自分次第です
「悪人は正しいことを悟らない
主を求める者はこれをことごとく悟る
正しく歩む貧しい者は
曲がった道を歩む富める者にまさる」
(箴言28章5-6節)
欲に負けていくと、何が正しいことなのかがわからなくなってしまいますが
はじめは迷う者であっても、神を信じ求めていく人は
どう生きていくのが正しいことなのかを悟るようになります
自分に必要以上の富を求めることなく
曲がった道に迷い込まないように
正しい道を求めていきましょう
「今わたしは、人に喜ばれようとしているのか
それとも、神に喜ばれようとしているのか
あるいは、人の歓心を買おうと努めているのか
もし、今もなお人の歓心を買おうとしているとすれば
わたしはキリストのしもべではあるまい」
(ガラテヤ人への手紙1章10節)
神の前に正しく歩むためには
自分がどう思われているかに固執することなく
見栄や面子を第一とする価値観を変えていくことが大切です
一見、いかにも熱心に神を信じているようであっても
信仰にも、自分がどう思われるかを持ち込み
神に対する信仰ではなく
人に見せる演技の信仰もあります
それが、”偽善なる学者パリサイ人”の信仰です
「偽善な律法学者、パリサイ人たちよ
あなたがたはわざわいである
杯と皿の外側はきよめるが、内側は貪欲と放縦とで満ちている
盲目なパリサイ人よ
まず、杯の内側をきよめるがよい
そうすれば、外側も清くなるであろう」
(マタイによる福音書23章25-26節)
今後、神がどのようなところへ導かれるのかは
予想がつかない分だけ不安感もつのります
しかし、間違いなくいえることは
神は必ずその人にとって”ちょうどいいところ”へ導いてくださるということ
人にどう見られるかではなく
神にどう見ていただくかを思い
正直に、謙遜に、愛をもって歩むべく
日々、各々に開かれた道を前進していきましょう
神から認められる人は
人からも認められる人です
その道のりには辛いことや苦しいこともある一方で
神による慰めもあることを信じ
希望をもって今日一日を生きていきたいものです
<目次