今週のみことば
6月11日
「イエスは言われた『あなたがたもまだわからないのか
口にはいってくるものは、みな腹の中にはいり
そして、外に出て行くことを知らないのか
しかし、口から出て行くものは、心の中から出るのであって
それが人を汚すのである
というのは、悪い思い、すなわち、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、誹りは
心の中から出てくるのであって
これらのものが人を汚すのである
しかし、洗わない手で食事することは、人を汚すのではない』」
(マタイによる福音書15章16-20節)
パリサイ人と律法学者たちがイエスのもとに来て
弟子たちが食事の前に手を洗わないことについて批判しました
そこでイエスはイザヤの予言を引用して
パリサイ人たちは常に目に見える行いを重視し
その心は神から離れていると指摘します
『この民は、口さきではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている
人間のいましめを教として教え、無意味にわたしを拝んでいる』(8節)
「まむしの子らよ、あなたがたは悪い者であるのに
どうして良いことを語ることができようか
おおよそ、心からあふれることを、口が語るものである」
(マタイによる福音書12章34節)
パリサイ人たちの間違いは
神の御心を無視して、見てくれの行いに走ったところにあります
つまり彼らにとって重要なのは人であり
人からどう思われるか、どのように見られるかにこだわるため
神によって心が正しい方向へと導かれることがなく
他の人々にもそのように指導するのでした
ここでは、人間の人格が口を通して出ること
だからこそ、真理(神)に目をとめ、心に神を持つことの重要性を教えていますが
正しく導かれるためには神に知恵が必要で
もし人が自分の知識や人の考えに頼るならば
それは盲人が盲人を手引きするようなもの
すなわち二人とも穴に落ちると記されています
「だから、すべての汚れや、はなはだしい悪を捨て去って
心に植えつけられている御言を、すなおに受け入れなさい
御言には、あなたがたのたましいを救う力がある
そして、御言を行う人になりなさい
おのれをあざむいて、ただ聞くだけの者となってはいけない」
(ヤコブの手紙1章21-22節)
「また船を見るがよい
船体が非常に大きく、また激しい風に吹きまくられても
ごく小さなかじ一つで、操縦者の思いのままに運転される
それと同じく、舌は小さな器官ではあるが、よく大言壮語する
見よ、ごく小さな火でも、非常に大きな森を燃やすではないか
舌は火である。不義の世界である」
(ヤコブの手紙3章4-6節)
神のみことばには大きな力があっても
それを知識として聞くのみで、実際に行わないなら
自分で選んだ安易な道に進み
やがて大切なものを見失うことになります
大切なのは、神によって心が正常に整えられていくこと
そうでなければ、心に直結している舌がしばしば間違いをおかし
いよいよその人の人間性を下げてしまいます
人間多かれ少なかれ誰でも心に欠けたものを抱えていて
そこが正しくなるようにと
神は諸問題を通して導いてくださいます
しかし
わたしたちは、目の前に起きてくる様々な問題を通して
神の導きを知る機会を得ても
実際にどう行動するかによっては
問題が根本解決されず、後に残ってしまうこともあるでしょう
目の前の問題はちょうど山に例えることができます
険しい山に登るルートには
登山の厳しさを味わうハードなルートや、初心者向けの楽なルート
あるいは更にレベルを下げたわき道の迂回ルートまであって
各々の力に応じてルートを選びますが
そこには必ずガイド役が必要です
目の前の山=諸問題に対処する時
とりあえず迂回ルートでやりすごすのもひとつの方法ではありますが
いつも迂回ばかりしていたのでは成長がありません
最初は逃げていたとしても
いつかは山に向かって厳しい道を通り
問題を根本から克服することが大切です
そして、そこにはガイド役となってくださる神の存在が必須
神の知恵と導きがあれば
大きな山も恐れることなく立ち向かい
やがて試練を乗り越えて成長することができるのです
「ゼルバベルに、主がお告げになる言葉はこれです
万軍の主はおおせられる
これは権威によらず、能力によらず、わたしの霊によるのである
大いなる山よ、お前は何者か
おまえはゼルバベルの前に平地となる」
(ゼカリヤ書4章6-7節)
どんな大きな山(問題)も神は平地としてくださるのですから
力のないわたしたちも勇気をもって
各々の前に開かれる道を信仰をもって進んでいきましょう
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