今週のみことば


6月18日


「五旬節の日がきて、みんなの者が一緒に集まっていると
突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起こってきて
一同がすわっていた家いっぱいに響きわたった
また、舌のようなものが、炎のように分かれて現れ
ひとりびとりの上にとどまった
すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに
いろいろの他国の言葉で語りだした」
(使徒行伝2章1-4節)

去る6月12日は聖霊降臨日(ペンテコステ)でした
復活から40日後、弟子たちに向けて
『聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて
エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらには地の果てまでわたしの証人となるであろう』
と言い残し、彼らの目の前で昇天されました
それから10日後、つまり復活から50日後に
約束の聖霊が与えられたのです

聖霊降臨は、使徒たちが集まっているところに突然起こりました
聖霊はひとりひとりの上にとどまり
彼らに知らない他国語で語らせ始めたのです
その様子を見て驚いたのは
色々な国からエルサレムに集まっていたユダヤ人たちでした
彼らの国の言葉を、ガリラヤ人である使徒たちがなぜ話しているのか
しかもその内容は神の大きな働きを述べている
これは一体どういうわけなのだろう・・・と考えた末
あの人たちは新しい酒に酔っているのだと結論付けます

しかし、それを聞いたペテロは立ち上がって反論します
これはヨエルによって予言されていた聖霊があたえられたのであり
酒に酔っているわけではないこと
そして、イエスの復活と、その救いを述べ伝えたところ
3千人もの人々が、イエス・キリストの名によるバプテスマを受けたのです

「そこでイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて言われた
『こう、しるしてある
キリストは苦しみを受けて、三日目に死人の中からよみがえる
そして、その名によって罪のゆるしを得させる悔い改めが
エルサレムからはじまって、もろもろの国民に宣べ伝えられる
あなたがたは、これらの事の証人である
見よ、わたしの父が約束されたものを、あなたがたに贈る
だから、上から力を授けられるまでは、あなたがたは都にとどまっていなさい』」
(ルカによる福音書24章45-49節)


この言葉通り、聖霊を受けた弟子たちは神からの力を授かり
それまでのあやふやな信仰ではなく
確固たる信念のもとに立ち上がって
命をも惜しまず、その福音のために働く者となっていったのでした
ここからがキリスト教の始まりです

「神の戒めを守る人は、神におり
神もまたその人にいます
そして、神がわたしたちのうちにいますことは
神がわたしたちに賜わった御霊によって知るのである」
(ヨハネの第一の手紙3章24節)

「しかし、わたしたちは神から出たものである
神を知っている者は、わたしたちの言うことを聞き
神から出ない者は、わたしたちの言うことを聞かない
これによって、わたしたちは
真理の霊と迷いの霊との区別を知るのである」
(ヨハネの第一の手紙4章6節)

「神が、御霊をわたしたちに賜わったことによって
わたしたちが神におり、神がわたしたちにいますことを知る」
(ヨハネの第一の手紙4章13節)


わたしたちは聖霊を受けることで”神と共にある人”となり
世の中にある迷いの霊ではなく
真理(=神)の霊に従う者として歩む者となります
聖霊によって力と知恵を与えられ、その導きに従っていくことこそ
神と共にある者の本道なのです

かくしてイエスの名による洗礼と聖霊とによる救いは広がっていきましたが
せっかく救いに与りながらも後ろをふり返り
再び迷いの霊の中に戻ろうとする人々もありました

「ああ、物わかりのわるいガラテヤ人よ
十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に描き出されたのに
いったい、だれがあなたがたを惑わしたのか
わたしは、ただこの一つの事を、あなたがたに聞いてみたい
あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行ったからか
それとも、聞いて信じたからか
あなたがたはそんなに物わかりが悪いのか
御霊で始めたのに、今になって肉で仕上げるというのか
あれほどの大きな経験をしたことは、むだであったのか
まさか、むだではあるまい
すると、あなたがたに御霊を賜い、力あるわざをあなたがたの間でなされたのは
律法を行ったからか、それとも、聞いて信じたからか
このように、アブラハムは”神を信じた。それによって、彼は義と認められた”のである
だから、信仰による者こそアブラハムの子であることを、知るべきである」
(ガラテヤ人への手紙3章1-6節)


聖霊は
その人の行いによるのではなく、信じることで与えられます
非常に単純ではありますが
ただ聞いて信じる信仰こそが、神の前に義とされるすべてです
律法の行いによっては、だれひとり義とされない
もし、義(救い)が律法によって得られるとすれば
キリストの死はむだであったことになると
ガラテヤ人への手紙2章には記されています

では、救いを受けて神と共にある者(クリスチャン)となったなら
どのような扱いを受けていくのでしょうか

「あなたがたはみな、キリスト・イエスにある信仰によって、神の子なのである
キリストに合うバプテスマを受けたあなたがたは、皆キリストを着たのである
もはや、ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない
あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つだからである
もしキリストのものであるなら
あなたがたはアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのである」
(ガラテヤ人への手紙3章26-29節)


14節には「アブラハムの受けた祝福が異邦人にも及ぶ」と記されているように
聖霊と洗礼とによる救いは
本来神の選民ではない異邦人にも、選民と同じ立場とされ
アブラハムの子孫として、その祝福を相続する者とせられます
そして、アブラハムが”神を信じた。それによって、彼は義と認められた”のと同様に
わたしたちもまた行いによるのではなく
イエスを信じる信仰によって救われ、祝福を継いでいく
それがどれほど素晴らしいことなのか、有難い事なのか
今年も聖霊降臨日を機会に考えてみましょう

更にアブラハムは、子どもが与えられるには常識的に希望のない状況にあっても
なお神に望みをおいていく信仰を持っていました

「彼は望み得ないのに、なおも望みつつ信じた
そのために『あなたの子孫はこうなるであろう』と言われているとおり
多くの国民の父となったのである」
(ローマ人への手紙4章18節)


わたしたちはアブラハムのこの信仰を継いでいく者であり
信仰によって希望を得ていくのです

「そして、希望は失望に終ることはない
なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって
神の愛がわたしたちの心に注がれているからである」
(ローマ人への手紙5章5節)


これからも神と共に歩む者として
救われた感謝を忘れず
心新たにそれぞれの道に踏み出していきましょう



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