今週のみことば


6月25日


「天国は、ある家の主人が、自分のぶどう園に労働者を雇うために
夜が明けると同時に、出かけていくようなものである
彼は労働者たちと、一日一デナリの約束をして、彼らをぶどう園に送った
それから九時ごろに出て行って、他の人々が市場で何もせずに立っているのを見た
そしてその人たちに言った
『あなたがたもぶどう園に行きなさい。相当な賃銀を払うから』
そこで、彼らは出かけていった
主人は、また、十二時ごろと三時ごろとに出て行って、同じようにした
五時ごろまた出て行くと、まだ立っている人々を見たので、彼らに言った
『なぜ、何もしないで、一日中ここに立っていたのか』
彼らが『だれもわたしたちを雇ってくれませんから』と答えたので
その人々に言った『あなたがたもぶどう園に行きなさい』
さて、夕方になって、ぶどう園の主人は管理人に言った
『労働者たちを呼びなさい。そして、最後にきた人々からはじめて
順々に最初にきた人々にわたるように、賃銀を払ってやりなさい』
そこで、五時ごろに雇われた人々がきて、それぞれ一デナリずつもらった
ところが、最初の人がきて、もっと多くもらえるだろうと思っていたのに
彼らも一デナリずつもらっただけであった
もらったとき、家の主人にむかって不平をもらして言った
『この最後の者たちは一時間しか働かなかったのに
あなたは一日中、労苦と暑さを辛抱したわたしたちと同じ扱いをなさいました』
そこで彼はそのひとりに答えて言った
『友よ、わたしはあなたに対して不正をしてはない
あなたはわたしと一デナリの約束をしたではないか
自分の賃銀をもらっていきなさい
わたしは、この最後の者にもあなたと同様に払ってやりたいのだ
自分の物を自分がしたいようにするのは、当たり前ではないか
それともわたしが気前よくしているので、ねたましく思うのか』
このように、あとの者は先になり、先の者はあとになるであろう」
(マタイによる福音書20章1-16節)

朝早くからぶどう園に雇われていた人々は
夕方一時間しか働かなかった人々と支払われたお金が同じだったことに不平を言いました
これは、お金という報酬だけに目をとめた場合にはなるほど不公平なことです
しかし、そこには
ぶどう園にいるおかげで得た平安は計算に入っていません

ここで、ぶどう園を「教会」に
与えると約束された報酬を「神の祝福」に置き換えてみると
長年信仰生活を続けた人が
最近になって教会へ来るようになった人と自分を比べて
自分にはきっとたくさんの、目に見える利益があるに違いないと
期待する様子に似ていることがわかります

しかし、神の祝福は神が定めるもの
神はそれぞれにふさわしい形の祝福を、皆に平等に与えられるのですが
目の付け所によっては
自分には何もないように思う人もあるものです

「大きな家には、金や銀の器ばかりではなく
木や土の器もあり
そして、あるものは尊いことに用いられ、あるものは卑しいことに用いられる
もし人が卑しいものを取り去って自分をきよめるなら
彼は尊いきよめられた器となって、主人に役立つものとなり
すべての良いわざに間に合うようになる」
(テモテへの第二の手紙2章20-21節)


人間は、神によって自由に造られる器です
その素材も形も自分で選ぶことはできませんが
救いを受け、自分の中にある間違った感覚が改められていくとき
どんな人も尊いきよめられた器となって
神の証人として役立つ者となるのです

1節に
「キリスト・イエスにある恵みによって、強くなりなさい」とあるように
その恵みこそが大きな力
人に喜びや平安、輝きを与えることができるものです
しかし、こうしたせっかくの恵みも
恵みとはお金だと思う人には、目に留まらないでしょう
このように
根本的な価値観が変わらなければ
人は本当の恵みや祝福が何なのか実感できないままです

信仰生活は本来、日々の生活に直結するものであり
日常からかけはなれた高尚なものではありません
日常生活を通して人の弱さも間違いも教えられることで
そこから悔い改めがはじまるのです
もし間違いに気づかされたら、潔く改めていきましょう

長い間たたんでいた布には折りじわがつき
伸ばそうと思ってもなかなかしわは消えないように
人の心もまた
自分の間違った価値観を変えず、意固地になっていては
あちこちに歪みが出てきます
心を柔らかくして、みことばを受け入れ
バランスのとれた人となっていくことができますように



<目次