今週のみことば


7月2日


「それから彼らがエリコを出て行ったとき、大ぜいの群衆がイエスに従ってきた
すると、ふたりの盲人が道ばたにすわっていたが
イエスがとおって行かれると聞いて、叫んで言った
『主よ、ダビデの子よ、わたしたちをあわれんで下さい』
群衆は彼らをしかって黙らせようとしたが、彼らはますます叫びつづけて言った
『主よ、ダビデの子よ、わたしたちをあわれんで下さい』
イエスは立ちどまり、彼らを呼んで言われた
『わたしに何をしてほしいのか』
彼らは言った『主よ、目をあけていただくことです』
イエスは深くあわれんで、彼らの目にさわられた
すると彼らは、たちまち見えるようになり、イエスに従って行った」
(マタイによる福音書20章29-34節)

目が見えないという大きな障害を抱えたふたりは
イエスが側を通ると聞いてためらうことなく叫びだしました
これに対して群衆はふたりを黙らせようとしましたが
彼らはますます叫び続けます
目が開きさえすれば自分の人生は変わる
今がそのチャンスだと必死にすがりつく思いが伝わって
彼らはイエスの深いあわれみを受けることができました

一方、この前の20節からの記述を読むと
そこにはゼベダイの子らの母が登場し
彼女もまたイエスに願い事をしています
その願い事とは
自分の息子たちが天国でイエスの左右に座ることができるようにというもの
つまりは、高い地位、名誉を求めての願いでした

それを聞いて他の弟子たちが憤慨していると
イエスはこう言われます
『あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、仕える人となり
あなたがたの間でかしらになりたいと思う者は、僕とならねがならない』


先週の、ぶどう園のたとえにおいても
働きの多い少ないで賃金に差をつけなかった主人に対して
多く働いた人が不平を言っていたように
人は自分の心にある思いどおりに神がされるものだと考え
神の恵み、憐れみ、御配慮といったところに目がとまらないものです

自分はこれだけの働きをした
だから人よりたくさんの報酬も、地位も、名誉も与えられるべきという考えは
人と自分を比べるところから起こるものであり
その人にとって本当に必要なものではありません

しかし、ふたりの盲人にとっては
目が見えるようになることは本当に必要なことです
彼らは決して多くを望んだのではなく、ただ見えることを必死で求めたところ
神のあわれみを受けることができたのです

目が見えないままでは
たとえお金をもらっても、高い地位についたとしても
彼らの人生は根本的には変わりませんから
本当に自分の人生に必要なことを彼らが正しく把握し
純粋に求めたことは幸いでした

このように、わたしたちの人生にあっても
神の恵みやあわれみを受けるチャンスはさまざまな形で訪れます
いや、今すでに、あわれみの中で生活し活かされていることをまず自覚し
自分が自立して生きていくために本当に必要なものは何かを考え
問題の根本解決のために祈っていきましょう

そして
自分の願いが聞かれたあとはどうするのかといえば
そこからが新しい人生の始まり
奇跡も恵みもけっして忘れず、その後の生き方に反映させる事で
いよいよ正しいことも正しい道もわかるようになるのです

ふたりの盲人は、目が開かれた後
イエスに従って行ったと記されています
わたしたちもまたイエスに従う者として
みことばに従い、各々自分の置かれた立場でするべきことを成し
人と比べることなく
神の恵みとあわれみを受けて
平安のうちに歩んでいきましょう



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