今週のみことば


7月16日


「イエスがひとりになられた時、そばにいた者たちが
十二弟子と共に、これらの譬(たとえ)について尋ねた
そこでイエスは言われた
『あなたがたには神の国の奥義が授けられているが
ほかの者たちには、すべて譬で語られる
それは”彼らは見るには見るが、認めず
聞くには聞くが、悟らず
悔い改めて許されることがない”ためである』」
(マルコによる福音書4章10-12節)

ここはイエスが「種まきのたとえ」について語られたところです
種まきが種をまきに行ったところ
道に落ちた種は鳥がきて食べてしまい
石地に落ちた種は、芽は出たが根がのびないので枯れた
イバラの中に落ちた種は、イバラにふさがれて実を結ばなかった
そして、良い地にまかれた種は順調に育ち
30倍、60倍、100倍の実を結んだ

このたとえを聞いた弟子たちは
意味が理解できなかったので、それをイエスに尋ねます
すると、その他の人々にはたとえだけが語られたところを
弟子たちには解き明かしまで語られたのでした
それは、その他の人々(群衆)は、イエスの語る神の国の奥義について
認めず、悟らず、悔い改めもしないことがわかっていたからです

種まきのたとえの解き明かしは以下のとおりです

種まきがまく種は「みことば」です
道に落ちた種とは
すぐにサタンが来て、心にまかれたみことばが奪われてしまう人のこと
石地に落ちた種とは
みことばを聞いて一時的には喜んで信じるものの
根がないので、困難や迫害があるとすぐにつまづいてしまう人のこと
イバラの中に落ちた種とは
みことばを聞いても、世の心づかいや富の惑わしといった様々な欲がみことばをふさぐので
実を結ばなくなる人のこと
そして、良い地に落ちた種とは
みことばを受け入れて、そのまま豊かに実を結ぶ人のことです

最初みんなにこのたとえが語られた時、イエスは
『聞く耳のある者は聞くがよい』と言われました
みことばを受け入れ、種が順調に育つ良い地であるために必要なのは
まず、みことばを受け入れようとして傾けるところの耳です

ここで群衆には、たとえの解き明かしがされなかったように
世の中の全員が神の言葉を受け入れるわけではなく
受け入れようとする気持ちのある者にだけ
天国の奥義、つまりはいかにして人は救われ、幸いに生きていくのか
その方法が知らされるのです

神を信じる人もそうでない人も
世の中で生きていく間には、良い事も悪い事も色々経験させられます
神の救い(洗礼と聖霊)を受けたなら
自分に都合の良いことだけが起きてほしいと思いますが
神の許しのうちに様々な困難にも直面しつつ、そこで成長し
最終的には必ず幸いへと導かれ、信仰者は世の中の戦いに勝利するのです

この積み重ねによっていよいよ信仰は堅くせられ
どんなに生きにくい世の中であっても
自分を見失わず、平安を得、喜びと感謝と共に生きることができるわけですが
その間には心の葛藤もあるでしょう

みことばの種が順調に育つような良い地でありたいと思っても
サタンの惑わしや、あやふやな信仰
また、世の中のさまざまな欲にほんろうされるなど
心の中には常に戦いがあるものです

「また、ほかの譬(たとえ)を彼らに示して言われた
天国は良い種を自分の畑にまいておいた人のようなものである
人々が眠っている間に敵が来て、麦の中に毒麦をまいて立ち去った
芽が生え出て実を結ぶと、同時に毒麦もあらわれてきた
僕たちがきて、家の主人に言った
『ご主人様、畑におまきになったのは良い種ではありませんでしたか
どうして毒麦が生えてきたのですか』
主人は言った『それは敵のしわざだ』
すると僕たちが言った『では行ってそれを抜き集めましょうか』
彼は言った『いや、毒麦を集めようとして、麦も一緒に抜くかもしれない
収穫まで、両方とも育つままにしておけ
収穫の時になったら、刈る者に、まず毒麦を集めて束にして焼き
麦の方は集めて倉に入れてくれと言いつけよう』」
(マタイによる福音書13章24-30節)


心の中に間違った考えや思い(毒麦)があって
それに気づかないか、あるいは気づいても悔い改めることをしない場合でも
神のあわれみのうちに、間違いを抱えたまま人生は進んでいきます
そして、この間違いを抱えた地にあっては
みことばの種が育つことも難しいのです

かといって、神は前もって毒麦を抜かないとのことですが
ひとりひとりを自分の心と向かい合わせ
そこが良い地になるように、正しい生き方を示してくださるのですから
まずはみことばに耳を傾けて
素直に受け入れていく努力をしましょう

どんなに優秀な技術者であっても
日々の研究から離れて別のことをやっているうちに
持っていたはずの勘が鈍ることがあるのだといいます
昔やっていたことだからといっても
途中を怠れば勝手が違ってしまうように
信仰生活も日々コツコツと与えられた道を歩むことが重要で
小さな者、未熟な者も、神の前に少しずつ育っていって
やがて大きな存在になることができるのです

「天国は一粒のからし種のようなものである
ある人がそれをとって畑にまくと、それはどんな種よりも小さいが
成長すると、野菜の中で一番大きくなり
空の鳥が来て、その枝に宿るほどの木になる」
(マタイによる福音書13章31-32節)


重要なのは
信仰歴が長い、聖書をたくさん勉強しているということではなく
いかに生きた信仰を身に着けているか
いざという時に信仰に立って、神の導きを得て冷静に進めるか、です

機械がオーバーホールを必要とするように
礼拝は心を整える大切な時
いくら聖書の勉強をしていても
それが日々の生活に役立たないのでは意味がありません
パリサイ人は「自分」が強すぎて真理をつかむことができませんでした
人生のガイドを神に頼らず、自分に頼ったからです

神がガイドとなって導いてくださる時には
これで一体どうなるのだろうと人間的な不安はあっても
一生という長いスパンで見れば
これで正しかったのだとわかる道が開かれていきます

良い事も悪い事も、その人の考え方次第で状況は変わっていきます
この世の中にあって天国をつかむために
せっかくまかれた種(みことば)を無駄にすることなく
心の中でしっかり育てていきましょう



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