今週のみことば


8月13日


「彼らは海を渡り、ゲネサレの地方に着いて舟をつないだ
そして船からあがると、人々はすぐイエスと知って、その地方をあまねく駆けめぐり
イエスがおられると聞けば、どこへでも病人を床にのせて運びはじめた
そして、村でも町でも部落でも、イエスがはいって行かれる所では
病人たちをその広場におき、せめてその上着のふさにでも
さわらせてやっていただきたいと、お願いした
そしてさわった者はみな癒された」
(マルコによる福音書6章53-56節)

この章には、有名な「5つのパンと2ひきの魚の奇跡」が記されています
その奇跡を体験したばかりの弟子たちは
次に舟に乗せられて、逆風に悩まされているところへ
海の上を歩いてくるイエスと遭遇しますが
彼らはその姿を見て幽霊だと勘違いし、大いに恐れました

「先のパンのことを悟らず、その心が鈍くなっていたからである」(52節)

どんな奇跡を体験しても
心が鈍く、そこから大切なことを悟ることができなければ
その体験を次に生かすことができません

一方で、ゲネサレ地方に居た人々は
イエスの噂を聞き、病人を連れてどこへでも追いかけてきました
彼らは「せめてその上着のふさにでもさわらせてやっていただきたい」と願い
そうすれば病人が癒されると信じていたのです

「上着のふさ」にふれることは、すなわちイエスご自身にふれることです
ただ癒されることを求め、癒されると信じ
病人はそのままの姿でイエスの前に出て行きました

わたしたちもまた、それぞれ心の中には
多かれ少なかれ病んでいるところがあり
嫌なところも人に見せたくない部分も持っていますが
格好つけることなくそのままの状態で神の前に出る信仰が大切です
そうすることで
やがてイエスご自身(=神=真理)にふれて
教えられ、癒されるためです

多くの人は、イエスの救いに触れるまでは
自分の面子や立場を重要視して生きてきたわけで
祈りの目的も、ともすればそれらの欲求を満たすことに傾きがちです
わたしの願いがかなうことが神の御旨であって欲しいし
そうあるべきだとも思ってしまうのですが
そういう思いが心を支配すると
いつまでも問題から離れることができません
自分の面子を言いはじめると感情が先立ち
そこに神の働き(助け)がなくなってしまうからです

「主はこう言われる
『知恵ある人はその知恵を誇ってはならない
力ある人はその力を誇ってはならない
富める者はその富を誇ってはならない
誇る者はこれを誇りとせよ
すなわち、さとくあって、わたしを知っていること
わたしが主であって
地に、いつくしみと公平と正義を行っている者であることを知ることがそれである
わたしはこれらのことを喜ぶと、主は言われる』」
(エレミヤ記9章23-24節)


人はそれぞれ心に面子や名誉、あるいは金銭といった「偶像」を持っており
それらの「偶像」を拝む道から、神の導く方へと方向転換することで
本当の幸いを得ることができます
とはいえ、「己を捨てる」ことはひとりの力では非常に難しく
この人生には良き指導者が不可欠です

そして、人生の指導者となってくださる神が求められるのは
表向きの信仰熱心ではなく
真の神を知り、畏れ敬い信じていくこと
自分を誇らず、神を誇りとして
その導きに従って、正しく歩もうとすることです

心が鈍くなって、その内に「偶像」が増殖しないように
聖書はどのように語っているかを知り
そのみことばに聞き従っていきましょう
病んでいる部分が癒されて
本当の平安と喜びで満たされますように



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