今週のみことば
9月24日
「さて、大ぜいの群衆が集まり
その上、町々からの人たちがイエスのところに、ぞくぞくと押し寄せてきたので
ひとつのたとえで話をされた
『種まきが種をまきに出て行った
まいているうちに、ある種は道ばたに落ち、踏みつけられ
そして空の鳥に食べられてしまった
ほかの種は岩の上に落ち、はえはしたが水気がないので枯れてしまった
ほかの種は、いばらの中に落ちたので
いばらも一緒に茂っきて、それをふさいでしまった
ところが、ほかの種は良い地に落ちたので、はえ育って百倍もの実を結んだ』
こう語られたのち、声をあげて
『聞く耳のある者は聞くがよい』と言われた
弟子たちは、このたとえはどういう意味でしょうか、とイエスに質問した
そこで言われた
『あなたがたには、神の国の奥義を知ることが許されているが
ほかの人たちは、見ても見えず、聞いても悟られないために
たとえで話すのである
このたとえはこういう意味である
種は神の言葉である
道ばたに落ちたのは
聞いたのち、信じることも救われることもないように
悪魔によってその心から御言が奪い取られる人たちのことである
岩の上に落ちたのは
御言を聞いた時には喜んで受け入れるが
根がないので、しばらくは信じていても
試練の時が来ると、信仰を捨てる人たちのことである
いばらの中に落ちたのは
聞いてから日を過ごすうちに
生活の心づかいや富や快楽にふさがれて
実の熟するまでにならない人たちのことである
良い地に落ちたのは
御言を聞いたのち、これを正しい心でしっかりと守り
耐え忍んで実を結ぶに至る人たちのことである」
(ルカによる福音書8章4-15節)
「道ばた」「岩の上」「いばらの中」「良い地」
それぞれにまかれた種のうち
順調に育って、最後に実を結んだのは「良い地」だけです
他はいずれも
”信仰という根”がないために
心の中で”みことばの種”を、守ることも育てることもできないのでした
大切なのは
いかにも信仰熱心に見えるうわべの姿ではなく
その人を支えている根の部分です
そこに神へのしっかりした信仰があれば
試練の中も、神と共に耐え忍びつつ
さまざまな世の心づかいに翻弄されることもなく
神の御旨のいかなるかをみことばより学んで
正しい道を歩んでいくことができるでしょう
こうしてわたしたちは
自分自身が良い地となるようにと励んでいくのです
また、まかれた種をわたしたちに例えるならば
どういう地にまかれたとしても
そこを良い地としていく努力をすることです
それぞれが置かれた環境も立場も
一見、道ばたであったり、岩の上であったり、イバラの中であったりと
良い地からは程遠く思えるかもしれませんが
神と共に歩んでいくならば
そこは必ず恵まれた良い地となっていくのです
「このように、あなたがたは主キリスト・イエスを受けいれたのだから
彼にあって歩きなさい
また、彼に根ざし、彼にあって建てられ、そして教えられたように
信仰が確立されて、あふれるばかり感謝しなさい」
(コロサイ人への手紙2章6-7節)
「また、信仰によって、キリストがあなたがたの心のうちに住み
あなたがたが愛に根ざし、愛を基として生活することにより
すべての聖徒と共に
その広さ、長さ、高さ、深さを理解することができ
また人知をはるかに越えたキリストの愛を知って
神に満ちているもののすべてをもって、あなたがたが満たされるように、と祈る」
(エペソ人への手紙3章17-19節)
「あなたがたはたしかに彼に聞き、彼にあって教えられ
イエスにある真理をそのまま学んだはずである
すなわち、あなたがたは
以前の生活に属する、情欲に迷って滅び行く古き人を脱ぎ捨て
心の深みまで新たにされて
真の義と聖とをそなえた神にかたどって造られた新しき人を着るべきである」
(エペソ人への手紙4章21-24節)
世の中には、神の光とは別物の”光らしきもの”もあり
わたしたちを導く光が神のものか世のものかを
きちんと見分ける必要があります
聖書は決して非常識を教えてはいません
ですから
そこからはずれたものを求めていくと
結果的には間違った道に迷い込んでしまうのです
神よりの正しい光を受けていくために
みことばを信仰持って受け入れ、聞き従って
それぞれの地を整えていきましょう
「わたしはあなたにむかって、罪を犯すことのないように
心のうちにみ言葉をたくわえました」
(詩篇119篇11節)
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