今週のみことば


10月27日


「彼は望み得ないのに、なお望みつつ信じた
そのために『あなたの子孫はこうなるであろう』と言われているとおり
多くの国民の父となったのである
すなわち、およそ百歳となって、彼自身のからだが死んだ状態であり
また、サラの胎が不妊であるのを認めながらも
なお彼の信仰は弱らなかった
彼は、神の約束を不信仰のゆえに疑うようなことはせず
かえって信仰によって強められ、栄光を神に帰し
神はその約束されたことを、また成就することができると確信した
だから彼は義と認められたのである」
(ローマ人への手紙4章18-22節)



常識的には不可能と思えることであっても
それが”神の約束”であるなら信じて待つ
その信仰を守り続けたアブラハムにやがてイサクが与えられ
その信仰ゆえに、彼は神により
”信仰的に正しい者”として認められたのでした

このアブラハムに与えられた奇跡は
望みのないところにおかれた者にとって
大きな希望の光となるものですが
”神の約束”とは
決して人の都合に基づいたものではないことを
ここで確は改めて教えられます

つまり
自分の計画=神の約束ではなく
神が開いて下さる道が自分の思いとは異なっていても
そのまま信仰をもって受け入れて進む時に何が成ってくるか
そこを見るのが大切なのです

神の約束をはっきり告げられたアブラハムも
その時期がいつになるのかは教えられず
イサクが生れるまではぎりぎりまで待たされています
その間には
人間的な思いで勝手に行動し
その結果イシマエルが生れるという過ちもありましたが
それでもアブラハムは
どんなに自分が年老いても
神の約束は成就するとの信仰を持ち続けたのでした

今、わたしたちがそれぞれ抱えている問題も
その行方を神にゆだね
人の言葉に振り回されず
神にあれば大丈夫なのだと信じて
今できることを一生懸命やっていくならば
やがて道は開けてくるでしょう

その行方も結末もあらかじめ知らされることはなくても
信じて頼っていく者を
神は見捨てることなく
必ず幸いへと導いて下さることは間違いありません

年を重ね
自分の体の自由もだんだんきかなくなってきた時
そこでなお不信仰にならず
神にあって日々前進できるかどうか
これはすべての人の課題となるでしょう

自分の身が不自由になるほどに
”世の中のささやき”に負けそうになるかもしれません
そのささやきは
人の不信仰を誘うもので
これに人は弱いのです
神さま信じていてもダメなんじゃないか・・・
そう思った時
アブラハムが抱き続けた希望を思い出す事が出来れば幸いです

自分が願うような道とは違っていても
開かれた道が神の道
そのように”思いを変える”には努力もいります
そして
思いを変える努力をすることもまた信仰によるのです

このように
信仰は、ただ頭でわかろうとするものではなく
そこに行動が伴わなくては意味がありません

イエスを迫害した律法学者やパリサイ人は
確かに聖書の知識にはくわしく
語ることは立派なものでしたが
彼らの間違いは
そこに行動が伴わなかったことです

「その時イエスは、群衆と弟子たちとに語って言われた
『律法学者と、パリサイ人とは、モーセの座にすわっている
だから、彼らがあなたがたに言うことは、みな守って実行しなさい
しかし、彼らのすることには、ならうな
彼らは言うだけで、実行しないから
また、重い荷物をくくって人々の肩に乗せるが
それを動かすために、自分では指一本も貸そうとはしない
そのすることは、すべて人に見せるためである」
(マタイによる福音書23章1-5節)


彼らは自分が立派に見えることを重要視し
中味の伴わない信仰生活をおくっていました
イエスによって、その間違いを指摘されても
彼らは自分の思いを変えることがなく
それはやがて使徒たちが伝道する時代になっても変わりませんでした

しかし
本当の信仰者は
信じているからこそ自分の間違いを正そうとするものです
そして、自分の面子を捨てて、思いを、考え方を変える
それが使徒行伝に語られたパウロの姿でした

信じているから行動できる
信じているから神の開いて下さる道に従える
信じているから神の約束を待てる

昔の信仰者たちは特別に難しい修行をしたわけではなく
信じることが難しい状況にあっても
なお神を信じた信仰によって認められました

人生は、何が起きたとしても
後ろを振り向かず、執着せず
すべてのことの意味は神がご存じであることを心にとめて
これからの道が教えられないままでも
それでも希望をもって進んでいきましょう



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