今週のみことば


11月24日


「それでは、これらのことについて、なんと言おうか
もし、神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか」
(ローマ人への手紙8章31節)


人生にはさまざまな苦難がありますが
キリストの愛によって救われた者は
その困難のうちにあってもダメになることなく
必ず神による勝利を得ることができると
ここには記されています

では、なぜそのように幸いな立場とされているのでしょうか

「ほとんどすべての物が、律法に従い、血によってきよめられたのである
血を流すことなしには罪のゆるしはあり得ない」
(ヘブル人への手紙9章22節)


旧約の時代には、律法に従って、罪のゆるしを得るために
たびたび動物のいけにえを捧げる儀式が行われていました
しかし、この罪のゆるしは一時的なものであり
決して罪を除き去ることはできなかったのです

「しかるに、キリストは多くの罪のために一つの永遠のいけにえをささげた後
神の右に座し、それから、敵をその足台とするときまで、待っておられる
彼は一つのささげ物にによって、きよめられた者たちを永遠に全うされたのである
(ヘブル人への手紙10章12-14節)


こうして、全く罪のない神ご自身が肉体を持つ人となってこの世に生まれ
一度だけ十字架にかかって自らをささげ物とされたのです
そして、その血による洗礼を受けてきよめられたものは
神に選ばれた者として「義」と認められたのでした

だからこそ、どんな困難な戦いの中にあっても
神は必ず助け出し、勝利を与えて下さるのですから
困難を恐れず、人を恐れず
どんな時も堂々と生きていけるわけです
しかし
神が義と認めて下さったからには
その立場に恥ずかしくない良心的な歩みも当然必要となります

「兄弟たちよ、こういうわけで、わたしたちはイエスの血によって
はばかることなく聖所にはいることができ
彼の肉体なる幕をとおり
わたしたちのために開いて下さった新しい生きた道をとおって
はいって行くことができるのであり
さらに、神の家を治める大いなる祭司があるのだから
心はすすがれて良心のとがめを去り、からだが清い水で洗われ
まごころをもって信仰の確信に満たされつつ、みまえに近づこうではないか」
(ヘブル人への手紙10章19-22節)


救いにあずかった後も
その歩みが正しく導かれるための場が教会であり
救われるのみならず
礼拝に集って、いかに生きるべきかを教えられることが大切なのですが
その時には
神の考え(御旨)を理解できるようにして下さる存在が必要となり
それが聖霊(御霊)なのです

「御霊もまた同じように、弱いわたしたちを助けて下さる
なぜなら、わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが
御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって
わたしたちのためにとりなして下さるからである
そして、人の心を探り知る方は
御霊の思うところがなんであるかを知っておられる
なぜなら、御霊は、聖徒のために
神の御旨にかなうとりなしをして下さるからである」
(ローマ人への手紙8章26-27節)

「神は唯一であり、神と人との間の仲保者もただひとりであって
それは人なるキリスト・イエスである」
(テモテへの第一の手紙2章5節)


聖霊は、神と人との間をとりなす仲保者であり
それは神が肉体を持って人となったイエスご自身を表しています
そして
このイエスの名による洗礼と聖霊によるバプテスマを受けて救われることにより
人は神の前に「義」とされる立場となるわけです

更には
人間同士の間においても
お互いの考えていることが分かりあえていれば
お互いの関係も良好に保たれていくように
神と人との間も
神ご自身が聖霊として人の心に働きかけ
神の考えがわかるようにしてもらえることで
神に喜ばれる者としてのあるべき生き方を知ることができ
その結果
神との間に良い関係を保っていくことができるのです
つまり
聖霊を持つことは
人生を正しく幸いに生きるための元を持っているのだとも言えるでしょう

さまざまな苦難に満ちたこの世にあっても
救われて神との良好な関係を持っていれば
そこに必ず必要な助けが与えられます
そして
この約束を信じる者には常に希望があり
その希望が人を生かすのです

「さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し
まだ見ていない事実を確認することである」
(ヘブル人への手紙11章1節)


どんなところに置かれても希望を捨てることなく
神が共に居て、助けて下さることを信じ
常に祈って進んでいきましょう



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