今週のみことば
12月1日
「そこであなたは言うであろう
『なぜ神は、なおも人を責められるのか。だれが、神の意図に逆らい得ようか』
ああ人よ、あなたは、神に言い逆らうとは、いったい、何者なのか
造られた者が造った者に向かって
『なぜわたしをこのように造ったのか』と言うことがあろうか
陶器を造る者は、同じ土くれから
ひとつを尊い器に、他を卑しい器に造りあげる権能がないのであろうか』」
(ローマ人への手紙9章19-21節)
人間は、神を信じる人もそうでない人も皆、神によって造られています
焼物師が同じ粘土から様々な器を自由に造るように
人間がそれぞれどのような器として造られるのかは
すべて神の自由意志によるものであり
すべての権限は神にあるわけです
「神は御自分が憐れみたいと思う者を憐れみ
かたくなにしたいと思う者をかたくなにされる」(18節)
このことについて、人は立場が悪いと思うかもしれません
ところが、神はそれぞれの造られた器に対し
その力の大きさを示すために怒りを発することなく
かえって”憐れみの器”として選び
こうして選民ではない異邦人にも救いが与えられたのです
”怒りの器”として滅びる運命にあった者が
”憐れみの器”として神の栄光を与えられる者となったのですから
洗礼と聖霊を受けてクリスチャンになった者は
”尊いきよめられた器”として神から喜ばれるように
その生き方を聖書に学んでいく必要があります
「大きな家には、金や銀の器ばかりではなく、木や土の器もあり
そして、あるものは尊い事に用いられ、あるものは卑しい事に用いられる
もし人が卑しいものを取り去って自分をきよめるなら
彼は尊いきよめられた器となって、主人に役立つ者となり
すべての良いわざに間に合うようになる」
(テモテへの第二の手紙2章20-21節)
モーセの十戒に代表される律法を完全に守ることで
「義」に到達しようとしたユダヤ人は
神ご自身が人となり、十字架上で流した血による罪のゆるし=救いが与えられても
なおイエスが救い主キリストであることを信じようとせず
どうしてもその部分が認められないために(ここにつまづいているために)
いつまでも律法にこだわり続けて現在に至っています
一方で
もともと律法をもっていなかった異邦人は
ただ神を信じる信仰でもって救いに至る道に歩み出しています
彼らは、”ユダヤ人がつまづいた石=イエス”により頼むことで救われ
人生に希望を得ていくのでした
「では、わたしたちはなんと言おうか
義を追い求めなかった異邦人は、義、すなわち、信仰による義を得た
しかし、義の律法を追い求めていたイスラエルは、その律法に達しなかった
なぜであるか
信仰によらないで、行いによって得られるかのように、追い求めたからである
彼らは、つまづきの石につまづいたのである
『見よ、わたしはシオンに、つまづきの石、さまたげの岩を置く
それにより頼む者は、失望に終ることがない』
と書いてあるとおりである」
(ローマ人への手紙9章30-33節)
人が神の前に義(正しい者)とされるには
神である救い主イエスを信じ
イエスの名による洗礼と聖霊を受けることが必要です
人間がどんなに正しく生きようと努力しても
人の頑張りでは決して「義」には到達できません
「人の義とされるのは律法の行いによるのではなく
ただキリスト・イエスを信じる信仰によることを認めて
わたしたちもキリスト・イエスを信じたのである
なぜなら、律法の行いによっては、だれひとり義とされることがないからである」
(ガラテヤ人への手紙2章16節)
神を信じることよりも
自分の行いを重要視して
それで義に至ろうとするのであれば
その考え方はすでにキリストに反しています
クリスチャンはあくまでも神から”憐れみの器”として憐れまれているのですから
自分の考えを中心とした自分の頑張りではなく
神の御旨を中心とした、聖霊による導きに従う心をもって
自分の進む道を神にゆだねて
希望を見いだして歩んでいくのです
「律法によって義とされようとするあなたがたは
キリストから離れてしまっている
恵みから落ちている
わたしたちは、御霊の助けにより、信仰によって義とされる望みを強く抱いている
(ガラテヤ人への手紙5章4―5節)
幸いなことには
神の義に至る救いの道は
イエスを救い主キリストと信じるすべての人に開かれていて
そこには何の差別もなく
どんな人も、自分の努力ではなく、ただ神の恵みによって
洗礼と聖霊による救いを受けることができるのです
「しかし今や、神の義が、律法とは別に
しかも律法と預言者とによってあかしされて、現された
それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって
すべて信じる人に与えられるものである
そこにはなんらの差別もない
すなわち、すべての人は罪を犯したため
神の栄光を受けられなくなっており
彼らは、価なしに、神の恵みにより
キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである」
(ローマ人への手紙3章21-24節)
このように
神の義に至る救いの道は
神の無償の愛によって与えられるもの
こうして
神の前に正しい者とされるには、まず洗礼と聖霊とによる救いを受け
それからは神が喜ばれる道を歩むことが大切です
それには何よりも神を信じる心が重要であり
人々が軽んじている”つまづきの石”に希望をおき
自分と神との間にすきま風が吹かないように
その関係をしっかり保っていきましょう
その際
自分の望みばかりを追いかけていると
お金や地位や名誉といった世のものに心を奪われ
神よりも世のものでもって安心感を得ようとするかもしれません
あるいは
自分の望みがかなえばもう神を忘れてしまうかもしれません
大切なのは自分の栄光ではなく神の栄光
そのことを忘れなければ
がむしゃらに自分の名誉を追い求めることもないでしょう
世のものはすべて一時的なものにすぎませんが
神よりのものは永遠です
神は人に何が必要であるかすべてご存じですから
人はただ神の助けを信じ
必ず幸いへ導いて下さると信頼して
一日一日、自分に与えられた使命を果たしていくのみ
聖書により
イエスの説いた神の国の教え(福音)を教えられ
常に心を神に向け
恵みの基である神から離れないように
”尊いきよめられたの器”として平安を与えられつつ
日々前進していきましょう
<目次