今週のみことば


1月28日


「エルサレムにある羊の門のそばに
ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があった
そこには五つの廊があった
その廊の中には、病人、盲人、足なえ、やせ衰えた者などが
大ぜいからだを横たえていた
(彼らは水の動くのを待っていたのである
それは、時々、主の御使いがこの池に降りてきて水を動かすことがあるが
水が動いた時まっ先にはいる者は
どんな病気にかかっていても、いやされたからである)
さて、そこに38年のあいだ、病気に悩んでいる人があった
イエスはその人が横になっているのを見
また長い間わずらっていたのを知って
その人に『なおりたいのか』と言われた
この病人はイエスに答えた
『主よ、水が動く時に、わたしを池に入れてくれる人がいません
わたしが入りかけると、ほかの人が先に降りて行くのです』
イエスは彼に言われた
『起きて、あなたの床を取り上げ、そして歩きなさい』
すると、この人はすぐにいやされ、床をとりあげて歩いて行った」
(ヨハネによる福音書5章2-9節)


38年も病気に苦しみながら
誰の助けも得られず、ただベテスダの池の側に横たわるこの病人に対して
『なおりたいのか』とのイエスの言葉は
人間的に考えれば、何を今更そんな当たり前のことを聞くのかと
不信感も抱きかねない内容で
この病人自身もまた、言い訳のような返答をしています

38年も病気だからといって
周りから何か譲ってもらえるわけではなく
それは理不尽な様ではありますが
結局、人が何かしてくれるのをただ待っていたり
自分はどうせ何もできないと決めてしまったりと
そういう考え方そのものを転換しなくては
前へ進むことはできません
状況が悪いなりに何かできることをしようとする気持ちを持つ
これが信仰をもって従っていくということです

神はわたしたちの抱える問題をご存知ですが
試練が長くなれば、放置されているようにも思われるもの
人間の考えでは
目の前の問題をすぐに解決してくれたら良いのにと思うわけで
その辺が神の考えと違うところです

わたしたちにとって大切なのは
神の考え、神の価値観を共有していくこと
もし、同じ価値観を持とうとしなければ
自分に与えられた神の助けに気づかず
他の人の方が楽に見え
長年苦労している自分がいよいよ惨めに思えて
なぜ自分の方には恵みが来ないのかと不満になるでしょう

『起きて、あなたの床を取り上げ、そして歩きなさい』
この後、病気はたちまち癒されましたが
実際に床をとりあげて歩いて行ったのは彼自身です

その奇跡を知ったユダヤ人たちは
いやされた日が安息日であったことからイエスに文句を言います
彼らは自分の思い(価値観)と違うことがなされると
その奇跡の業も否定して、感謝もありません
このように
神の価値観を持たない人は
信仰に立つことも、感謝することもなく
いよいよ神を見出すこともできないのでした

『わたしは病気だから何もできない』ではなく
そこで何ができるかを考える人になっていきましょう
気持ちが病気になると
本当に何もできなくなってしまいます
”わたしは何もできない”という名の病気を返上し
『起きて、あなたの床を取り上げ、そして歩きなさい』
このみことばに立って進み出したいものです

誰でも多くの祈りの課題があるわけですが
目先の病気が癒されたとしても
次の問題が起こればまた不安です
一部の問題だけが解決されれば良いのではなく
多方面にわたってバランスよく整えてもらわなければ
そのために信仰を持って立ち上がらなければ
いつまでも不安や不満から開放されません

目の見えない人が介助者を信用していない場合
不安のあまり腰が引けて、いつまでもスムースに歩めないように
神を信用しなければ
人は自信を持った行動ができなくなります
どんな試練があったとしても
神はわたしたちの現状をすべてご存知で
その上で今の状況があるわけですから
この事を通して神が何か教え導いてくださるとの思いを持ち
置かれた所、立場はみなそれぞれ違えど
各々が神を見出していくことができますように

「神は、神を愛する者たち
すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて
万事を益となるようにして下さる事を、わたしたちは知っている」
(ローマ人への手紙8章28節)




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