今週のみことば


2月11日


「イエスが道を通っておられるとき、生まれつきの盲人を見られた
弟子たちはイエスに尋ねて言った
『先生、この人が生まれつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか
本人ですか、それともその両親ですか』
イエスは答えられた
『本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない
ただ神のみわざが彼の上に現れるためである』」
(ヨハネによる福音書9章1-3節)


この後、イエスは地につばきしてどろを作り、盲人の目に塗り
シロアムの池に行って洗うようにと指示します
常識的には、なぜこのようなことをされるのか不思議に思うところですが
盲人は言われたとおりにシロアムで目を洗い
見えるようになったのでした

ところが、イエスのことを陥れようとしているパリサイ人たちは
その日が安息日であったことから
安息日にこのようなことをしたイエスを批判しますが
どんなに盲人を問い詰めても
彼はイエスが自分の目を開けてくれた事実しか語りようがないのです
『生まれつき盲人であった者の目をあけた人があるということは
世界が始まって以来、聞いたことがありません
もしあのかたが神からきた人でなかったら、何一つできなかったはずです』(32-33節)

イエスの言葉に従うことで
盲人の目が見えるようになったように
イエスと共に歩むことにより
わたしたちはその人生に光を得ることができます

一方、おきてに生きるパリサイ人は
神の奇跡をおきてに結び付けて考えるので
同じように奇跡を見ても何も教えられず
そこには感謝がありません

表向きどんなに信仰熱心に見えても
おきての修行のような偏った信仰では
自分の都合の悪いことは信じず
人の幸いも喜べないのです

彼らは難しい勉強はしていますが
それが魂の成長に役立っておらず
自分は知っていると自負していても
結局真理がつかめないままなのでした

真理(神)を知るのに必要なのは
余計なところに目をとめるのではなく
ただ真実のみを見ていくことです

盲人は、イエスにされた不可解なこと(泥を塗られたこと)についても
そのまま従いましたし
パリサイ人がどんなに問い詰めてきても
きちんとひとつの真実を語りました
そして、その言葉に対して
パリサイ人は最後に何も言えなくなってしまうのです

人にはそれぞれ試練や問題があり
それがどこから来たかと考えても
誰の責任でもない場合
問題が解決されるには、神の働きを待つ必要があります
また、その間には
自分にとって嫌なこともしなくてはならないかもしれません
しかし、そこを信仰をもって通り過ぎる時
”神によって救われ、その導きに従うとどうなっていくのか”
という事実を知っていくでしょう
信仰生活には、難しい勉強をして知識をふやすことよりも
この大切な”ただひとつのこと”をつかむのが重要なのです
それを知っていれば、そして忘れなければ
その心は常に神に向き
正しく導かれていくのですから

「主を恐れることは知恵のもとである
聖なる者を知ることは、悟りである」
(箴言9章10節)

「油断することなくあなたの心を守れ
命の泉は、これから流れ出るからである
曲がった言葉をあなたから捨て去り
よこしまな談話をあなたから遠ざけよ
あなたの目は、まっすぐに正面を見
あなたのまぶたはあなたの前を、まっすぐに見よ
あなたの足の道に気をつけよ
そうすれば、あなたのすべての道は安全である
右にも左にも迷い出てはならない
あなたの足を悪から離れさせよ」
(箴言4章23-27節)


世の中の人々にとって
”守るべきもの”とはお金や名誉や家柄などをさすものですが
クリスチャンにとっての守るべきものは”神への思い”
それがあれば、必要なものもみな守られていくものです

現在も、知識によって神に近づこうとする人が多くありますが
その心に神をおそれる気持ちがないなら
真理には到達できません
まずは神のきよきを知り
恐れ、敬い、その言葉に従っていく
そういった基本を心から離さないように
曲がらないように、迷わないように
まっすぐ導かれていきましょう



<目次